侯成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/01 15:07 UTC 版)
侯 成(こう せい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。
正史の事跡
姓名 | 侯成 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 騎将 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 呂布→曹操 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
呂布配下の騎将。史書の記述は断片的で、『後漢書』呂布伝や、『三国志』魏書呂布伝の注で引用されている『九州春秋』などに散見される。
ある時、侯成の食客が侯成の所有する15頭の馬を奪い、小沛の劉備のもとに逃げる事件があった。これを聞いた侯成は追いかけて馬を奪い返し、同僚たちから祝賀された。またあるとき、侯成は5、6石の酒を醸造し、さらに狩猟して10頭余の猪を捕獲した。彼はそれらを同僚に振る舞おうとを考え、先に呂布へ猪5頭と醸造した酒五斗を献上し「将軍のおかげで、私の馬を取り戻すことができ、諸将が私を祝いました。酒を醸造し、狩りをして猪を捕獲しました。まだ飲食はしておりませんので、将軍に献上した次第でございます」と、その許可を得ようとした。しかし、呂布は禁酒中であったため激怒し「わし自らが禁酒令を出しているというのに、汝は勝手に醸造し、諸将とともに飲食して義兄弟の契りを結び、共謀して反乱を起こすつもりなのか」と、侯成を面罵した。これに恐怖と憤懣を抱き、疑心暗鬼に陥った侯成は、そのまま退出するなり酒と猪肉を処分し、諸将からの贈り物を返した。
建安3年(198年)、呂布が曹操に包囲され下邳城に立て籠ったとき、同僚の魏続・宋憲と共に反乱を起こし、陳宮を捕縛して[1]曹操軍へ寝返った。これが原因で、魏続・宋憲に捕縛された呂布は曹操によって処刑された。
その後は、史書に記述が見当たらない。
物語中の侯成
小説『三国志演義』では、呂布配下の八健将の1人(序列第8位)として登場する。曹操との戦いでは、曹操を後一歩まで追い詰めるものの、曹操軍の典韋に撃退される。呂布に酒肉を献上するくだりは史実と同様だが、さらに呂布から罰棒50回の刑を加えられている。その後、呂布の赤兎馬を盗んで曹操に降り、魏続・宋憲と協力し、呂布・陳宮・高順を生け捕りにしたことになっている。その後は登場しない。
注釈
参考文献
侯成(こうせい)
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「一騎当千の登場人物」の記事における「侯成(こうせい)」の解説
洛陽高校の闘士。左目に刺青をした男。呂布配下の闘士の一人だが、董卓の死亡後に曹操の手土産として呂布の殺害を目論むが返り討ちにされた。
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