侯景の増長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 19:15 UTC 版)
高澄は再び慕容紹宗を派遣して侯景を攻撃させ、侯景は撤退して渦陽に入った。侯景はなおも数千匹の馬や数万人の兵士や1万両あまりの車を保有して、渦北で東魏軍と対峙していた。しかし侯景軍の糧食は尽き、兵士たちはみな北方出身者であったために南渡を望まず、侯景の部将の暴顕らはおのおの部下を率いて慕容紹宗に降った。侯景の軍は統制を失って逃げ散り、侯景は腹心数騎とともに硤石から淮水を渡り、敗残の兵を収容して800人を集め、寿春に逃げ込んだ。監州の韋黯が侯景を受け入れた。侯景は自ら武帝に降格を申し出たが、武帝は許さず、本官のまま豫州牧とした。 侯景は寿春に拠って、城の住民をすべて軍士として召募し、交易税や田租を止め、子女を将兵たちに配分した。軍人の上着を作るために朝廷に錦1万匹を請求すると、領軍の朱异の議論により、御府錦署の賞与で辺城の軍服を作らせるわけにいかないとされ、代わりに青布が給与されることとなった。侯景が布を得ると、これを全て使って上着や下着を作らせたことから、かれは青色を尊ぶようになった。また寿春で作られる兵器の精度が悪いことから、東冶の鍛冶工を送るよう求め、さらには工場建設まで要求して、武帝の命令によりこれらは与えられた。侯景は渦陽の敗戦以後、多くの物を要求したが、朝廷は寛大さを示すために、要求を拒絶しなかった。 先だって梁の豫州刺史の貞陽侯蕭淵明が大軍を率いて北伐し、東魏の彭城を包囲したが、敗れて東魏に捕らえられた。このため武帝は東魏に修好の使者を送り、以前の良好な関係を復活させようとした。548年(太清2年)2月、武帝は東魏と講和した。侯景はこれを聞いて驚き、武帝に再考を求めたが、武帝は聞き入れなかった。侯景は梁と東魏の和平成立により、両国のあいだで侯景と蕭淵明の身柄が交換されるのを恐れて、反乱を決意した。以後の侯景は上表を思いのままにおこない、言葉遣いは不遜なものとなった。鄱陽王蕭範は合肥に駐屯しており、司州刺史の羊鴉仁とともに侯景が反乱を企んでいると奏上しようとしたが、領軍の朱异が握りつぶして奏聞させなかった。武帝は侯景に賞賜を加えて、ますます増長させることとなった。侯景は臨賀王蕭正徳が朝廷を恨んでいることを知って、これと密約を結んだ。
※この「侯景の増長」の解説は、「侯景の乱」の解説の一部です。
「侯景の増長」を含む「侯景の乱」の記事については、「侯景の乱」の概要を参照ください。
- 侯景の増長のページへのリンク