簡文帝擁立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)
桓温は自らの才能を自負しており、かねてより異志を胸に秘めていた。まず河北で功績を打ち立てて名声を高め、帰還の後に九錫を受けて政権を簒奪する腹づもりであったが、枋頭での失敗により逆に声望を大いに損なってしまった。寿春の戦役の後、桓温は参軍郗超へ「此度の戦勝で枋頭の失敗を雪げただろうか」と問うた。郗超は首を振り、桓温へ伊尹や霍光に倣って廃立の計を行い再び威権を高めるよう進言した。桓温はこれに同意した。 11月、桓温は兵を従えて入朝すると、褚太后へ迫って司馬奕が男色に溺れているという理由で廃するよう求めた。褚太后は百官を朝堂に集めると、司馬奕を海西公に貶降する決定を下した。その後、桓温は百官を従えて司馬昱の邸宅へ向かい、彼を迎え入れて皇帝に擁立した。詔により、桓温には諸葛亮の故事に倣って武具を着用した100人を従えての入殿が許され、銭5千万・絹2万匹・布10万匹が下賜された。この一件で百官は大いに震え上がり、自らの身に禍が降りかかるのを大いに恐れた。 桓温は脚に病気を患っていたため、乗輿にて入朝する事を許可された。桓温は簡文帝(司馬昱)に謁見すると、司馬奕廃立の理由について陳べようとしたが、簡文帝が涙を流し始めたので、大いに恐れて一言も発することが出来ずにそのまま退出した。簡文帝は自身もいつ廃立されるかを常々憂慮し、桓温の側近郗超にしばしば動向を尋ねていたという。
※この「簡文帝擁立」の解説は、「桓温」の解説の一部です。
「簡文帝擁立」を含む「桓温」の記事については、「桓温」の概要を参照ください。
- 簡文帝擁立のページへのリンク