反乱までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 02:09 UTC 版)
316年に西晋が匈奴の漢により滅ぼされると、西晋の皇族で安東将軍・都督揚州諸軍事すなわち江南軍方面司令官として鎮していた琅邪王司馬睿は317年に皇帝として即位し、東晋を建国した。しかし華北からの亡命政権である東晋は皇帝権力が非常に脆弱で、元帝となった司馬睿は王導、そしてその従兄の王敦らの力を借りて権力基盤を整えようとした。当時、西晋滅亡の余波により湖南や湖北に逃れる難民が多く、杜曾という人物がそれらを糾合して反乱を起こし、湖南の零陵郡から武昌を席巻した。この反乱に王敦は陶侃や周訪らの力を借りて鎮定した。だがこのため、王敦の勢力が皇帝さえも無視し得ない隠然たるものになり、「王馬(王と司馬の両氏)天下を共治す」とまで言わしめるようになった。 元帝は皇帝権力を強化するため、劉隗、刁協らを側近として重用し、王氏の勢力を抑え込むために王敦、そして建国の功臣である王導をも遠ざけた。
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