反乱分子と1837年の反乱
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「アッパー・カナダ」の記事における「反乱分子と1837年の反乱」の解説
1800年以後、王党派によって植民地が方向付けられ管理されていくことに疑問を投げかける反乱分子が、植民地にもイギリス本国の役人にも現れた。その指導者はロバート・ソープ、ジョセフ・ウィルコックス、ロバート・グーレイおよび極めつきはウィリアム・ライアン・マッケンジーであった。彼らは税金、土地に関する政策、イギリス聖公会と家族盟約の特権、政府歳出予算および報道の自由について体制にことごとく挑戦した。すべての市民は選挙権は無くとも発言の権利はあるものと主張したが、党派は作らなかった。1831年に王党派がマッケンジーを議会から追放すると紛争が拡大した。1837年、反乱分子の簡単な武装蜂起は失敗した。政府はアメリカの影響を非難して、「この国では、不幸なことにアメリカ市民の定住があまりに多く認められ、奨励された。このために地域社会の中には不誠実な敵がいる。 ... 植民地の多くの地域で、教師達はアメリカ人である。... これらの教師はイギリスのことを全く知らず、生徒を教えるときにイギリスと植民地の関係が投げかける義務のどれ一つも教えられない」とした。寡頭政治的な家族盟約を守護する王党派は次のように説明した。「急進派、革命家あるいは破壊分子はすべてアメリカの開拓者と土地の投機家で構成されており、古い階級の農夫で単純で無知な輩と毎年のようにアメリカやイギリスからやってくる冒険の徒が、それぞれの国の法律から逃れようとしている。」 初代ダーラム伯爵ジョン・ラムトン(ダーラム卿)による「責任ある政府」の支持により王党派の勢力を削ぎ、徐々に大衆は行政の貧弱さ、不公平な土地と教育の政策および性急な輸送需要に対する不適切な関心を拒絶していった。1840年代遅くまでにロバート・ボールドウィンとルイ・ラフォンテーヌによる責任ある政府が実現した。
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