反乱勃発と拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 22:09 UTC 版)
「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」の記事における「反乱勃発と拡大」の解説
人民民主党には政権掌握前から派閥の対立があり、革命政府樹立後も政権幹部の左遷・解任・逮捕が相次いでいた。1979年3月、革命評議会議長はそのままで、首相職がタラキーからアミーンに交代した。 この3月に、東北部のヌーリスターンで反乱が起こった。さらに西部ヘラートでソ連人技術者が殺され、ファラーで空軍基地が襲われるなど、反乱は全国に拡大した。夏には全州の半分以上に何らかの反乱がおき、首都でも衝突が発生した。ソ連の軍事顧問が反政府ゲリラとの戦いに参入したが、ゲリラの勢力はむしろ拡大し、ベトナム戦争を思わせる泥沼状態に陥った。 内戦が深刻化する中、タラキーは1979年9月16日に失脚して、アミーンが革命評議会議長になった。この政変でソ連はアミーンの追い落としをはかってタラキーを後押ししたと言われる。10月6日にアフガニスタンのシャー・ワリ外務大臣は社会主義諸国の大使の前でソ連の陰謀を非難した。
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