反乱の鎮圧と廃位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 06:36 UTC 版)
バヤズィトにはコルクト、アフメト、セリム(次代のセリム1世)の三子がおり、長子のコルクトは文人気質で帝位への関心を見せず、次子のアフメトが後継者と目されていたが、シャー・クルの反乱中に息子たちの後継者争いに影響を与える事件が起きた。アフメトと大宰相ハドゥム・アリー・パシャが反乱軍を包囲した際にイェニチェリがアフメトの命令を拒否したために反乱軍の包囲に失敗する事件が起き、反乱の鎮圧においてコルクトとアフメトはイェニチェリ達の間の評判を落とし、イェニチェリ達の中では三男のセリムの人気が高まっていった。しかし、当のセリムは反乱中に後継者争いを有利に進めるためにバルカン半島への任地替えを要求し、次子アフメトを後継者に考えていたバヤズィトが要求を退けると、セリムはクリミア半島に亡命していた。 かろうじて反乱は鎮圧されるがハドゥム・アリー・パシャ、司令官ハイダル・パシャら主だった指揮官は戦死、指揮官を欠いたために反乱を完全に鎮圧することができず、反乱軍の大部分はサファヴィー朝に亡命した。反乱の後にアフメトは帝位を継ぐためにイスタンブールに入城しようとするがイェニチェリに阻まれて入城できず、1512年3月にクリミアからセリムが帰還、イェニチェリの支持を受けたセリムがクーデターを起こし、1512年4月25日にバヤズィトは廃位された。同年5月26日、バヤズィトは隠棲先であるトラキアのディメトカ(en:Didymoteicho)に向かう途上で崩御するが、セリムによる毒殺を指摘する声は多い。
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