反乱の萌芽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 13:36 UTC 版)
しかし蘇峻は次第に己の功績に驕るようになり始め、朝廷の意思を軽んじるようになり、その兵力を頼みとして異心を抱くようになった。亡命者を慰撫して迎え入れ、死を逃れる為にやって来た罪人を匿ってやり、その勢力は日を追う毎に盛んとなった。県より食糧の供給を絶え間なく受けていたが、それが少しでも意に沿わないものであれば、好き勝手に暴言を吐いたという。 太寧3年(325年)7月、明帝が崩御して成帝が即位すると、彼は幼年であったので政務の一切は外戚であった宰相の庾亮に委ねられた。彼はこの時から有力軍閥の長へと伸長していた蘇峻の異心を疑っており、彼が陶侃の兵を吸収することを恐れていた。この頃蘇峻は後趙の汲郡内史石聡の侵攻を防ぐなどの活躍を見せていたが、この頃になると朝廷が自身を害そうとしているのではないかとの疑心暗鬼に陥っていた。庾亮が蘇峻と交流の厚かった南頓王司馬宗を左遷の後に暗殺し、さらに蘇峻を首都建康に召還しようとすると、ついに蘇峻は豫州刺史の祖約と同盟して、庾亮を除くことを名目に朝廷への反乱を起こした。後に蘇峻の乱と呼ばれる乱である。
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