初動の成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 14:26 UTC 版)
「コシチュシュコの蜂起」の記事における「初動の成功」の解説
1794年3月24日、アメリカ独立戦争帰りにして対ロシア戦争に活躍してきた英雄タデウシュ・コシチュシュコは、コシチュシュコの宣言として知られる演説を行い、反乱の開始と全ポーランド軍の結集を宣言した:180–181。また彼は次のようにも述べた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}これらの力を、いかなる人をも抑圧するためにつかうのではなく、ポーランドの完全な国境線を防衛し、国家の独立を取り戻し、世界の自由を高めるために用いるのである。 —タデウシュ・コシチュシュコ ポーランド軍を応急的に強化するため、コシチュシュコはマウォポルスカに対し、5世帯ごとに少なくとも一人、カービン銃、パイクもしくは斧を持った男性兵士を出すよう布告した。さらにコシチュシュコのもとで、クラクフの委員会は18歳から28歳のすべての男子を徴兵した:184。この動員策で集まった兵士に対し十分な装備を与えるのが難しかったため、コシチュシュコは大鎌を持った農民たちで大規模な部隊を編成し、コスィニェシ(鎌を持つ者たち)と呼んだ:184。 エカチェリーナ2世は反乱が小規模なうちに早期鎮圧しようと考え、フョードル・デニソフ少将にクラクフ攻撃を命じた:184。4月4日、ラツワヴィツェ村近くで両軍が対峙した:185。このラツワヴィツェの戦いで、コシチュシュコ軍は数でも装備でも圧倒的だったロシア軍を破った。壮絶な戦闘の末に、ロシア軍は戦場を放棄して撤退した。会戦に勝利したとはいえ、コシチュシュコの軍はあまりにも小規模で、効果的に敵を追撃してマウォポルスカからロシア軍を駆逐することができなかった。そのためこの勝利の戦略的価値は無きに等しいが、ロシア軍に勝ったという知らせがポーランド中を駆け巡ったことで、他の地域から次々に人々が反乱軍に参加しに来た。4月上旬までに、ロシアに送られる予定でルブリンとヴォルィーニに集結していたポーランド軍が、コシチュシュコ軍に合流した。 4月17日、ワルシャワのロシア軍が、反乱に加担しているとみなした者の逮捕とワルシャワ内にいるスタニスワフ・モクロノフスキ元帥配下のポーランド軍の武装解除を試み、ミオドヴァの工廠を制圧した ことをきっかけに、スタニスワフ2世アウグストの優柔不断にしびれを切らしたヤン・キリンスキによるワルシャワ蜂起が勃発した。ロシア軍司令官Iosif Igelströmの無能ぶりや、蜂起の日が火曜日でちょうどロシア守備兵たちが聖餐のため教会に行っていたことにも助けられ、ワルシャワ蜂起の初動は成功した。一般市民の支持と支援もとりつけた反乱軍はロシア軍に多方面から奇襲を仕掛け、また蜂起の波がワルシャワ全体に広がっていった。2日にわたる戦闘の後、当初5000人いたロシア守備兵は2000人から40000人の損害を出してワルシャワから撤退した:188。4月23日にはヴィリニュスでもヤクプ・ヤシンスキらが蜂起し、同様の蜂起が旧ポーランド・リトアニア共和国の諸都市で次々と発生した:188。一方で、復活祭に参加していた非武装のロシア兵が虐殺されたことについて、ロシア側は「人道に対する罪」と非難し、後のプラガの戦いの際のワルシャワ市民に対する報復虐殺に繋がった。
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