捜査
初動捜査
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6月28日1時ごろに一人の巡査がいち早く現場に到着した。巡査は遺体を確認したあと、両隣の住民の話を聞こうとドアを叩いたが、205号室は電気も消えており、202号室は電気はついていたものの誰も出てこなかった。その後、みどり荘前の空き地を捜索していたところ、202号室の窓から男に「なにしよるか!」と声をかけられた。巡査は202号室に向かい、男に203号室で殺人事件が発生したことを伝え、何か物音を聞かなかったか聞いたが、男の返答は「酒を飲んで寝ていて何も聞いていない」とのことであった。 事件現場となった203号室の現場検証では、室内に犯人と被害者が争った跡は見られたが、金品を物色したような形跡はなかった。また、室内に土足の跡もなかった。遺体の膣内と陰毛から精液が採取され、陰毛に付着していた精液は血液型B型の人物のものと判明した。6畳間からは経血のついた下着(被害者は生理中だった)と、乳白色に薄紅色が混じった液体が発見され、この液体は血液型B型の血液を含む血液型A型の人物の唾液であった。被害者の血液型はA型であり、被害者が加害者に噛みついて吐き出したものと推測された。そのほか室内から人毛と姉妹以外の指紋が多数採取された。検死の結果、死因は、手で首を圧迫したあと被害者のオーバーオールで首を絞めつけて絞殺した窒息死と確認された。 夜が明けると聞き込み調査の範囲が広げられ、近隣住民からの証言が得られた。201号室の住民は、「22時ころベッドに入ったが、隣の202号室から大きなステレオの音がして寝付けなかった。しばらくして小さくなったので寝付いたが、アパートのどこかの部屋から聞こえるドタンバタンという音で目を覚まし、そして、バターンという人が倒れるような音を聞いた。その合間に女性の声が聞こえ、小さな声だったが『どうして、どうして』と言っているのは聞こえた」という話をした。みどり荘から空き地を挟んだ東側に住む住民も、「23時ころに床についてからしばらくして、『どうして』『教えて』といった女性の声を聞いた。その後、みどり荘2階からドタンバタンという音が2、3回聞こえた」という旨を証言した。 また、事件現場である203号室の北隣の205号室の住民からは、より詳しい証言が得られている。彼女によれば、「当日は23時40分ころ、部屋の電気をつけたまま眠りにつき、どれくらい経ったころか分からないが、『きゃー』『誰か助けてぇー』という女性の悲鳴で目が覚めた。物が倒れるような音も聞こえた。どこかの部屋に痴漢でも入ったのかと思い、隣室の203号室の人に聞いてみようとパジャマのまま部屋を出て203号室のドアをノックしたところ、中から女性の悲鳴が聞こえたので、驚いて慌てて自室に戻り、頭からタオルケットをかぶってベッドに入った。『ううっ』という声も聞こえてきたので不安になったが、そのあとは普通に話す声が聞こえてきたので、ふざけていたんだろうと安心して、トイレに行って再びベッドに入った。しかし、しばらくするとドスンドスンという音とともに『神様お許しください』と泣き叫ぶ声が1、2分にわたって10回程度繰り返し聞こえた。そして、再び静かになったが、しばらくして押入れの方からカタカタという音が聞こえてきたので怖ろしくなり、実家に帰ろうと着替えて部屋を飛び出した。その際、木のツッカケを履いていたので、金属製の外階段はカンカンと甲高い音を立てた。短大の前の公衆電話から実家に連絡し、続けてタクシーを呼んで実家に帰った。タクシーに乗ったのは0時40分ころ、最初に女性の悲鳴を聞いて目を覚ましたのは、それより15分か20分くらい前だと思う」ということであった。 こうした情報からは、犯人は、深夜に被害者を訪ねても部屋に入れてもらえる程度の面識がある人物と思われた。6月29日の大分合同新聞も、犯人が土足で侵入した形跡がないことやドアの鍵が壊されていないことなどから「顔見知りの犯行か」と報じた。しかし、容疑者として捜査線上に浮上したのは、こうした犯人像とは異なる人物であった。
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初動捜査
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「愛知県蟹江町母子3人殺傷事件」の記事における「初動捜査」の解説
2009年5月2日朝、次男Bの勤務先の上司がBの欠勤を不審に思い、同日12時20分ごろに蟹江警察署(愛知県警察)の署員とともにA宅を訪ねた。駆けつけた警察官が家の中に声を掛けていたところ、負傷した三男CはLの気配がないことに気付き、両手首を縛られた状態で施錠されていた玄関の鍵を開けて家の玄関から飛び出してきた。Cは間もなくA宅の玄関付近に来ていた警察官によって保護され、「休んでいてください」と付近に待機させられたが、この時に蟹江署員に対し「強盗に入られた、助けてください。家の中で2人死んでいます。犯人は逃げました」と伝えた。 一方、Lは1階南側の玄関ドア隙間から上がり框でうずくまっていたが、その姿を確認した蟹江署員はLを被害者だと思い込み、玄関先から「出てきてください」と声を掛けた。その後、署員が2分間ほど無線で連絡を取っていた間、Lは隙を見てA宅の勝手口を解錠し、現場から逃走した(#初動捜査における不手際)。警察官らが屋内に入ったところ、次男Bが1階の和室で倒れており、搬送先の病院で死亡が確認された。このため、愛知県警は本事件を殺人事件と断定し、特別捜査本部(特捜本部)を設置したが、Bの遺体が入っていた和室の押し入れは目視確認にとどめていたため、Aの遺体発見に時間がかかった(#初動捜査における不手際)。 特捜本部は事件発覚翌日(2009年5月3日朝)から改めて現場検証を行い、和室の押し入れ下段に押し込められている母親Aの遺体を発見した。また、A宅の洗濯機には血液の付着した衣服が入れられていたことも確認され、室内からはパーカー・凶器(モンキーレンチおよびクラフトナイフ)・防寒用手袋・マスクといった遺留品のほか、猫(Aが飼っていたペット)の死体も発見された。 被害者Cは事件当初、「犯人にパーカーで顔を隠されたので、犯人の顔はわからなかったが、海部地域とは違うイントネーションの日本語で現金を要求された」と証言していた。一方、室内で発見された遺留物の中に、被害者母子とはいずれも異なるデオキシリボ核酸 (DNA) 型が検出された。特捜本部はそのDNA型を警察庁のデータベースで照会したが、この時点では合致する型は発見できなかった。その後、唾液・汗などを含めた室内の遺留物を鑑定したところ、被害者3人全員の血液型(A型)とは異なるO型の血液型血痕が検出された。一方で現場の複数箇所からは手袋の跡が見つかったが、遺留品からは犯人の指紋は発見されなかった。
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初動捜査
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被害者4人の遺体遺棄現場となった大牟田市内を流れる諏訪川。「馬沖橋」(写真右手奥に見える橋)から被害者Cの遺体が投げ捨てられ、A・B・Dの3人の遺体はAの乗用車もろとも撮影地点付近(馬沖橋付近から約350メートル下流地点)に沈められた。
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初動捜査
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「河瀬駅前交番警察官射殺事件」の記事における「初動捜査」の解説
被疑者・巡査Xは犯行後に交番の扉・窓をいずれも完全に施錠した上で逃亡していた。 Xは身柄を確保された際には「Aから罵倒されたから撃った」と供述したが、交番内の防犯カメラ映像には「Xが罵倒されるような映像」は記録されていなかった。また滋賀県警は12日付発表で「2人の間にトラブルは確認されなかった」と説明した。 滋賀県警は2018年4月18日付で被疑者巡査Xを殺人容疑で大津地方検察庁に送致した。 また、Xが事件直後にATMから出金限度額の50万円を引き出したことについて、滋賀県警は「犯行は突発的なもので、あわてて逃走資金を用意しようとしたのではないか」とみて調べた。 滋賀県警は2018年4月23日に「被害者・巡査部長Aを事件当日の11日付で2階級特進により警部に昇任させた」と発表した。
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初動捜査
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「コロンビア号空中分解事故」の記事における「初動捜査」の解説
NASAのシャトル運営管理官ロン・ディットモア(英語版)は、「計器が最初に示したのは左主翼の温度計と油圧系が失われたことで、続く数秒あるいは数分のうちに、左主脚タイヤの圧力消失や構造部の過熱など、問題が続けて発生した」と報告した。データ破損のために初めは放置されていた31秒間分のテレメトリデータを後に解析したところ、シャトルはどうにか方向を維持しようと悪戦苦闘しており、最後は姿勢制御システムを最大推力で噴射していた。 調査では、最も初期から断熱材の衝突が注目されていた。離陸の際に氷や破片が衝突して機体に損傷を負わせることは既に知られており、特に STS-45やSTS-27、STS-87などでこれまでにも既に起きていた。コロンビア号の喪失後、NASA当局は剥落の原因は恐らく製造不良にあると結論し、断熱材を欠陥なく装着するようルイジアナにあるミーシュー組立工場(英語版)の従業員を再訓練した。 過去には極低温の外部燃料タンク(ET)から融除された断熱材が耐熱タイルに損傷を与えたこともあった。1999年、それまで断熱材の吹き付けに用いてきたフロンガスが、オゾン層を破壊するおそれがあるとして使用が禁止された。NASAはCFC-11(トリクロロフルオロメタン)の法的な使用制限からは除外されていたが、何れにしても仕様を変更していたため、事故との関連が疑われた。STS-107のETは旧型の軽量タンク(超軽量タンクの前身で、どちらも初期型の標準重量タンクを改良して作られたものである)で、表面の広い円筒形の部分にはフロンガスを使用しない新型の発泡断熱材が使われていた。しかし、バイポッド・ランプ(写真参照)の部分は BX-250 断熱材を適用しており、これは環境保護庁の規制対象外であり実際にも元のフロンを含む組成を用いていた。このため組成の変更は事故とは無関係だった。いずれにせよ、本記事でも前出の通り、元の組成の断熱材でも剥落は頻繁に起きていた。
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初動捜査
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「別府3億円保険金殺人事件」の記事における「初動捜査」の解説
「事故」発生直後に現場に駆け付けた警察官は、目撃者から聞いた事故の状況や荒木の態度などに違和感を感じた。車はスピードを出したままブレーキもかけずに海に飛び込んでおり、実際に現場にはスリップ痕もなかった。荒木は妻が運転し自分は助手席にいたとやたらと強調し、また、妻子が車に残されているにしては荒木の態度は落ち着いていた。そして、数千万円の保険がかけられているという話を荒木自身が口にした。不審を抱いた警察は、別府署の捜査員、さらに県警本部から捜査1課、鑑識課を現場に派遣して調べにあたっていた。 「事故」の翌日の1974年(昭和49年)11月18日、業務上過失致死・道路交通法違反被疑事件として妻子3人の遺体が司法解剖された。死因は3人とも水死であり、以下の所見が得られた。 @media(min-width:720px){.mw-parser-output .columns-start{width:100%}.mw-parser-output .columns-start div.column{float:left}.mw-parser-output .columns-2 div.column{width:50%;min-width:30em}.mw-parser-output .columns-3 div.column{width:33.3%;min-width:20em}.mw-parser-output .columns-4 div.column{width:25%;min-width:20em}.mw-parser-output .columns-5 div.column{width:20%;min-width:20em}}妻 創傷右鼻翼部に2か所 擦過傷右腕外側のひじ近くに2条 皮下出血胸部右乳頭の約3.8センチメートル上 右ひざ蓋骨下縁の約5センチメートル下 右ひざ蓋骨上縁やや外側に2か所 左ひざ蓋骨内側 右上腕外側中央の右ひじから11.5センチメートル 右手背外側で小指のつけ根から1.5センチメートル中心側 頭髪剃毛の上で損傷の有無を精査したが著変なし 長女 鼓膜破裂 表皮剥離左手中指(小さなもの) 次女 鼓膜破裂 表皮剥離前頭部・左上肢・右足背に散在 皮下出血左下腿 右下腿 同日、別府警察署は、同じく業務上過失致死の容疑で裁判所から許可を得て引き上げた車両の検証を行い、以下のような状況が確認された。 フロントガラスは、窓枠の一部に破片が付着するほかは完全に破損している ダッシュボードには、灰皿の手前からフロントガラスの方向に、灰皿をまたいで約5センチメートルの擦り傷があった 助手席前、下方のグローブボックスの下側のふちが、2か所少しへこんでいた 灰皿は外れており、車内に見当たらなかった 運転席側の窓ガラスは11から12センチメートル開いており、助手席側の窓ガラスは全開で、ともに異常はなかった シートベルトは運転席にのみ取り付けられており、正常に作動した 運転席下にはハイヒール片方と女物のセーター、助手席前には防水用懐中電灯と男物の靴片方があった 助手席前のグローブボックスは閉まっており、中には柄の長さ36センチメートル、頭部14センチメートルのハンマーがあった 荒木に対しては、連日のように事情聴取が行われた。これに対して荒木は、夜に雨の中を時速130から140キロメートルで運転してきたため疲労が蓄積していたであろうこと、別府国際観光港第3埠頭は照明も消えて海面と路面の区別がつきにくかったことなどから、妻の過失による事故であろうと供述した。また、そうでないとすると、特に長男が荒木に反抗的で、妻は子どもと荒木の間で板挟みになっていたこと、荒木の女性関係に悩んでいたこと、病弱で生理外の不正出血があって子宮癌ではないかと不安を抱いていたことなどから、絶望し無理心中を図ったのかもしれないとも述べた。 しかし、警察は、妻による業務上過失致死の容疑での捜査を続けつつ、荒木による殺人の線での内偵捜査も進めていった。これは、荒木に対する最初の事情聴取で多額の保険が掛けられていることが判明したことに加えて、「九州一のワル」「犯罪のプロ」などと呼ばれていた荒木の経歴も理由であった。
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初動捜査
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「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「初動捜査」の解説
20時40分ごろ、帰宅した男性Dが妻子3人の他殺体を発見して神奈川県警察へ110番通報した。これを受けた県警本部通信指令室は「殺人容疑事件」として、事件現場付近を走行していた機動捜査隊のパトカーに現場急行を指令し、同時に所轄の藤沢警察署および隣接各署に緊急配備命令を出した。藤沢署員が事件現場に駆け付けたところ、A・B姉妹が食卓脇でそれぞれ胸を刺されて死亡しており、妻Cも台所の裏(隣家との境)でうつぶせで血を流して死亡していた。現場には凶器となった刃物のさや・段ボール箱ケースなどが遺されていたほか、殺害された3人の血液型(A型)とは異なるO型の血痕・ゴム底の足跡などが確認された。 遺体は3人とも血まみれ・即死状態だった一方、抵抗した跡・着衣の乱れは確認されなかったため、神奈川県警捜査一課・藤沢署は現場の様子などから総合して「3人は食事中に襲われた」と推測し、本事件を殺人事件と断定。翌日(5月28日)0時には県警が藤沢署内に「藤沢市辻堂母娘殺人事件捜査本部」を設置し、捜査員計195人を動員した。室内に物色の痕跡はなかった一方、短時間で3人を刺殺し、包丁を深く刺し込むほどの犯行態様から、捜査本部は「恨みによる犯行」との見方を強め、被害者の交友関係などを調べた。その結果、Dが「恨まれるとすれば、『平塚の山田等』(=F)しかいない」と証言し、事件前から長女Aに付きまとっていた男(後にFと判明)の存在が把握されたため、「事件後に失踪したその男(後にFと判明)が何らかの事情を知っている可能性が高い」と断定した。そのため、「山田等」を有力被疑者の1人として行方を追ったが、被害者A・C両名が生前に残していた「山田等」の住所・電話番号を手掛かりに、平塚市役所の戸籍係で該当者を探しても「山田」姓の住民はいなかった。そのため周辺で聞き込み捜査を行ったところ、普段から素行が悪く、犯行時間帯にアリバイがなかったFが浮上し、その顔写真を男性Dに見せたところ「この男によく似ている」という供述を得た。また、事件数日前からF宅に出入りしていた同年代の身長が高い男(=Y)も事件以降、Fとともに姿をくらましていたことが判明した。 さらに現場・国道1号の歩道に落ちていた血痕を照合したところ、Fの血液型(O型)と一致したほか、玄関ドア内側からFの掌紋が検出され、遺された足跡と同種の靴(25.5 cm)もFの自宅に置いてあったことが判明した。加えて国道1号上の血痕の量・長さは仮に犯人が犯行時に負傷し、逃走中に傷口を止血しながら逃走したとしても不可解だったことに加え、犯人は大量の返り血を浴びたはずなのに目撃者がいなかったため、捜査本部は「逃走を手伝った者がいる」と推測した。 しかし、Dが「山田等」に対し抱いていた「17、18歳くらい」という印象と、Fの実際の年齢(21歳)は隔たりがあり、掌紋も依然FがA宅を訪れた際の物である可能性が否定できなかった。そのため、この時点ではFを殺人容疑で指名手配することはできなかった。特に犯行動機は、事件解決の実績豊富なベテラン捜査員でも「それだけのことで殺人の動機になるとは考え難い」と受け取るものだったため、F以外にも(一家4人全員の)関連人物をアリバイも含め、くまなく捜査した。結果的に事情聴取された人数は2,000人以上におよんだが、F以外の被疑者たちからは犯行に結びつく動機を持ちうる人物は浮上せず、捜査線上に浮上した人物はほとんどが「容疑性なし」と結論付けられたため、事件発生時間帯にアリバイがなく、事件後から行方不明になっていたFへの容疑が強まる結果となった。
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初動捜査
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「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「初動捜査」の解説
富山事件では、2月24日 - 25日にAが自宅に掛けた「北陸企画にいる」という電話から、早々と女Mおよび北野が捜査線上に浮上した。その後、26日には富山署員とAの両親が「北陸企画」へ出向き、県警がMを事情聴取したものの、容疑不十分として事情聴取を中断し、Mを帰した。その後、被害者Aの死体が岐阜県内で発見されたことから、捜査は岐阜県警の主導で開始され、合同捜査本部(富山署)の設置は事件発覚から4日後、本格的な基礎捜査の開始(Aの目撃者探し、足取り・交友関係など)は1週間後だった。2人の経営していた贈答品販売会社(北陸企画)への調べも岐阜県警によって行われたが、それ以前に机や家具類などは運び出されていた。また、富山県警側で基本捜査の態勢が整った矢先の3月18日に、当時としてはかなり大規模な県警の人事異動があったため、刑事部長、富山署の署長および副署長・刑事官、鑑識課長などの幹部を含めた捜査員が大幅に交代したことも、捜査の支障となった可能性が指摘された。 その後も、A宅へ女性の声で「会いたい」という電話がかかるなどし、富山県警はMおよび北野をマークし続けていたが、その最中に長野事件が発生し、被害者Bが犠牲となったことから、富山事件の初動捜査次第で長野事件の発生を防げた可能性が指摘された。 また、長野事件で身代金引き渡し場所に捜査員を張り込ませていたことをMに感づかれ、逃走を許したこと(前述)も問題視された。
※この「初動捜査」の解説は、「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の解説の一部です。
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初動捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 04:14 UTC 版)
「篠崎ポンプ所女性バラバラ身元不明殺人事件」の記事における「初動捜査」の解説
警視庁捜査一課と小松川警察署は殺人事件と断定し、捜査本部を設置して捜査に当った。この下水道は一般河川からの流入がないことから、犯人が女性を殺害後、切断して直径の大きなマンホール、道路脇の雨水用のU字溝、下水の工事現場などの開口部から下水道へ投げ込んだものとみられた。またポンプ所では9月5日に、8月27日から溜まっていたごみ2トンを処理していたため、それ以降にポンプ所に流れ込んだものと考えられた。 警察は都内の女性の行方不明者リストと照合して身元の割り出しに当ると同時に、ポンプ所へ繫がる下水道を中心に、未発見の下半身の捜索を行った。10日には奥歯の治療痕を都内の歯科医院に照会した。 10日の司法解剖では、女性の背骨はノコギリ状の刃物で切断されていることが判明した。肋骨の下の肉を刃物で切られた後、第二腰椎の骨を切断されていた。生前の傷であることを示す生活反応はなく、切断は死後に行われたものだった。また、当初は20~40代と見られていたが、頭蓋骨の縫合状況から、20歳代の可能性が高いことがわかった。ただ、死因は依然として不明だった。 12日の午後5時40分頃、江東区青海二丁目地先中央防波堤内埋立地の都下水道局東部管理事務所のミキシングプラントのごみ焼却設備管理棟のピット内で、廃棄物の入ったクレーンのバケットを開けた作業員が、廃棄物の中に切断された死体の右足を発見した。右足は膝から下で切断されていた。足の大きさは23.5センチだった。 13日までに女性の血液型はA型と判明し、年齢も20歳前後である可能性が高まった。13日の午前、同じ江東区のごみ焼却設備管理棟のミキシングプラントのピット内で、左足も発見された。 10月29日までに、小松川署捜査本部から依頼を受けた鈴木和男東京歯科大学教授(法歯学)の歯形の鑑定により、女性の年齢は19歳から21歳であるとわかった。鈴木教授によると19歳の可能性が高く、うりざね顔で鼻が高く、目が大きいこともわかった。
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初動捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:52 UTC 版)
「ウォーターゲート事件」の記事における「初動捜査」の解説
逮捕時はエドワード・マーチンと名乗っていた男が本名ジェームズ・W・マッコード・ジュニアでこの時ニクソン大統領再選委員会の警備主任であることが、翌日までに判明した。彼はまたCIAの元工作員でもあった。そして彼らが投宿していたウォーターゲートホテルの室内から大金(100ドル紙幣53枚)が見つかり、その出処に疑惑が広がった。 現行犯逮捕された5人のうち、3人はキューバ人で1961年のピッグス湾事件(第1次キューバ危機)の退役軍人、1人は亡命キューバ人を訓練するCIA工作員、そして5人目はニクソン大統領再選委員会のメンバーだった。 さらに警察が押収したユージニオ・マルチネスともう1人の手帳の中にチャールズ・コルソンの名前があり、彼はこの時にホワイトハウス顧問であった。またマルチネスの手帳にはさらにエヴェレット・ハワード・ハントの名前が書きこまれていて、自宅の電話番号が記され、しかも「HOUSE・WH」と記されていた。ハントは、元FBI、CIA職員で、その後ホワイトハウスの非常勤顧問を務めてこの年の3月に辞職したが、4月から勤めていた広告会社のオフィスはホワイトハウスのすぐ向い側のビルにあった。 ワシントン連邦地方検事局(アール・J・シルバート主任検事補ほか)は、マッコードとCIAとの関係の調査を始め、かつ大統領再選委員会との関係についても捜査を始めた。そして元ホワイトハウス顧問のハワード・ハントが捜査線に浮かび上がり、しかも彼はキューバに関わった元CIA工作員であった。侵入犯のメンバー3人がいずれも反カストロの亡命キューバ人であったことから、民主党本部盗聴-大統領再選委員会警備主任-亡命キューバ人-ホワイトハウス顧問という絡みに疑惑が膨らむばかりであった。5人の背後にハワード・ハントがいることはもはや明らかになった。侵入犯がニクソン大統領に近い者と関係があるのではないかとの疑念が生まれた。 これに対し、6月19日にニクソン大統領の報道担当官ロナルド・ジーグラーは、三流のコソ泥(third rate burglary)とコメントして、ホワイトハウスとは無関係であるとして一蹴した。また6月22日には大統領が「いかなることにせよ、この特殊な事件にホワイトハウスは関係していない」と声明を出している。 この「三流のコソ泥」とは、この侵入事件の犯人グループの行動を的確に表現したものと一方では皮肉られている。そもそも発見されるきっかけとなったドアのテープは、内部に入れば必要でない(室内からロックを解除できる)のにわざわざ取り付け直していること、最初に侵入して取り付けた電話が狙っていたものとは違う別の電話であったこと、この程度の作業で5人も侵入する必要がなかったこと、侵入時に手帳を所持していた結果ホワイトハウスとの結びつきが露見したこと、しかも大統領再選委員会の現職の人間を入れたことなど、「これはプロのする仕事ではない。ヘマなやり方だ」「どんな老いぼれ刑事でも集団で押し入ったりするヘマはやらない」という専門家の声が事件直後の新聞に掲載された。このどこか軽い行動が逆に一般的な見方として、上層部の知らないところで現場の人間が軽はずみにやった犯行というイメージとなり、ニクソン政権には直接関係がないことと理解する向きが多く、大統領選挙にはまったく影響がなかった。
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初動捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 00:40 UTC 版)
香川県警はこの事件を当初、落雷などの「自然災害」と見ていたため、初動捜査が非常に立ち遅れた経緯がある。事件発生直後から現場には復旧作業に追われる四国電力社員らが立ち入っていたり、警察による規制線が張られていなかったため、現場から重要な証拠である抜き取られたボルトを持ち帰った新聞記者もいた。現場に県警の鑑識が入ったのはその後であり、まともな現場保存も出来なかった他、周辺道路における交通検問も事件直後でなかったため有効的に行われなかった。事件発生から3日目の夜、坂出警察署に特別捜査本部が設置されて本格的な捜査が始まる。
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初動捜査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 05:26 UTC 版)
「名護市女子中学生拉致殺害事件」の記事における「初動捜査」の解説
19時9分、被害者Aが拉致される瞬間を目撃していた近隣住民が、県警に110番通報した。これを受け、沖縄県警は19時12分、所轄署の名護警察署や、近隣の警察署へ緊急配備の司令を出し、19時25分に配備が完了。名護市から南へ抜ける要所で検問を行った。 しかし、実際に犯人2人が向かった方向は逆(北方)で、拉致現場から北側の検問は、約10 km離れた国道58号の1か所(国頭郡大宜味村津波)のみだった。この地点は、拉致現場から約10 km離れた場所にあり、拉致現場から時速60 km/hで走行した場合、10分で通過できる。また、拉致現場から幹線道路を経由して本島北端(殺害現場方面)へ向かうと必ず通る地点でもあり、国道331号など、西海岸に抜けるルートもチェックできる地点だったが、この地点の緊急配備を担当したのは、同地点から約15 km北方に位置する名護警察署辺土名交番勤務の署員で、検問を開始した時間は、他の地点より13分ほど遅い19時25分ごろだったため、2人は検問開始より先に同地点を通過していた可能性が高いことが指摘されている。名護署の管轄区域は、県北部の名護市など1市3町(約550 m2:沖縄本島の約45%)におよぶ一方、当時の署員数は98人と少なく、かつ事件当日は金曜日の当直時だったため、事件発生当時は当直員約15人と、手薄な時間帯だった。また、同日には、本島南部で別の事件が発生していたため、県警は捜査員のうち、半分をそちらの事件に回すことを余儀なくされた。 特別捜査本部長を務めた県警刑事部長の久高常良は6月27日、記者会見で「初動捜査の在り方に問題はなかったか」との問いに対し、「目撃者の通報後、直ちに緊急配備を敷いており、立ち上がりに問題はない」と回答した。また、久高ら捜査幹部は、『琉球新報』記者からの取材に対し、「犯人が事件後、中南部(人目が多く、夕方の渋滞に巻き込まれやすい市街地方面)に逃走した可能性は低い」と説明したが、久高は1997年1月3日に記者会見で「限られた人員・地理的な状況を踏まえ、『早い時間に大宜味村津波を押さえれば、包囲網が敷ける』と判断して検問を張ったが、結果的に加害者2人は配備前に検問場所を通過していた可能性が高い」と説明した。『週刊文春』 (1997) は、県警担当の社会部記者の「事件発生後の緊急配備がもう少し早かったらAちゃんは救い出せた可能性が高い」という証言を報道している。また、惠隆之介 (2013) は、「県警は『(本島北部で発生した)本事件は犯人が被害者を連れ、車で本島中部に南下するだろう』と推測して名護市内に非常線を張ったが、実際には被害者は拉致現場よりさらに北方の山中で殺害されていた」と述べている。
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初動捜査
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ボルダー警察は当初、ジョンとパッツィにほぼ焦点を当てていたが、1997年10月にはこの事件の参考人は1,600人以上に上った。 初動捜査の誤りによって解決が困難となった。その誤りには、証拠の紛失や汚染、経験豊富な捜査員の不足、ラムジー夫妻と共有した証拠、両親の事情聴取の遅れなどがあった。 1997年1月1日、ラムジー夫妻はアトランタにいた。夫妻はCNNとの45分間のインタビューに応じた。翌日ジョージアに移動することになったため、捜査官が付き添った。夫妻は気持ちが不安定である(too emotional)という理由で警察の取り調べを断っていたが、それにも関わらずCNNのインタビューを受けたことに捜査官はショックを受けていた。 1月3日、警察は、身代金要求書は殺害後に書かれたようだと発表した。 1月8日、身代金要求書の練習用原稿が自宅から見つかったと報じられた。 3月、筆跡鑑定人により、ジョンは容疑者から外されたが、パッツィに関しては可能性が否定されなかった。 3月末、ボルダー地方検事局の依頼により、ルー・スミット刑事が引退から復帰し、この事件を担当した。 4月19日、ボルダー地方検事アレックス・ハンターは、この事件で初めて、夫妻が捜査の焦点であると公言した。 4月末、ラムジー夫妻に対する正式な事情聴取が初めて行われた。 5月2日、夫妻は地元の報道陣のインタビューに応じた。ジョンは娘の名前を言い間違い、また、性的虐待の噂に触れ、それらを「最も傷つく言いがかり」と呼んだ。パッツィは「ジョンや私がそんな恐ろしい凶悪犯罪に関与していると考える人がいることに愕然とします。私たちが殺したのではないと断言します」と話した。 1998年1月、ラムジー夫妻は、2度目の事情聴取の要請を拒否した。
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