証拠調べ
証拠調べ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/03 20:43 UTC 版)
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証拠調べ(しょうこしらべ)とは、訴訟法上の手続として、裁判所が書証や人証等の証拠を取り調べること、または、訴訟法上の手続として、訴訟当事者や証人が法廷で尋問(主尋問・反対尋問)を受ける口頭弁論期日のこと(実務上、「証拠調べ」というときは、これらの人証の取調べを指すことが多い)をいう。証拠調と書くこともある。
民事訴訟手続の場合は、証人の証拠調べは証人尋問として、当事者本人については当事者尋問(本人尋問)として行われる。 民事訴訟法の証拠の開示請求手続にはこの他、証拠保全、当事者照会、文書送付の嘱託、文書提出命令申立などがある。
また、鑑定(民事訴訟法第212条~218条)や検証(民事訴訟法232条~233条)も証拠調べの1つである。鑑定の場合は、裁判所が指定する鑑定人[注釈 1]が鑑定を実施し、検証の場合は裁判官が直接、検証物や現場を確認する。
脚注
注釈
- ^ 大抵は鑑定内容に応じて裁判所があらかじめ鑑定機関と契約しており、その鑑定機関の中の人が鑑定人として選ばれることが多い。
関連項目
外部リンク
証拠調べ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「証拠調べ」の解説
被告人Fの身柄は初公判後、横浜拘置支所(横浜市港南区港南 / 横浜刑務所に隣接)へ移送された。 第2回公判は1982年11月30日に開かれた。同日はX・Y両事件の審理が行われ、検察官の冒頭陳述・被告人Fの罪状認否が行われた。同日、弁護人は藤沢事件と同じく、両事件について「自白調書は別件の脅迫容疑で逮捕・勾留されている際に作成された。別件逮捕が違法である以上、自白調書に証拠能力はない」として無罪を主張したほか、「強制的・拷問的な取り調べを受けた調書には任意性もない」と主張した。その後、検察官がX・Y両事件や余罪の窃盗事件について冒頭陳述を行ったが、小川が閉廷を告げたところ、Fは「言いたいことがある」と発言を求め、「取り調べを担当した警官6人は自分をうそ発見器(ポリグラフ)にかけ、言いたくないことを言わせたり、激しい暴行を加えるなど、基本的人権を蹂躙するような取り調べをした」などと発言した。第3回公判(1982年12月23日)では証人として神奈川県警の鑑識課員・尼崎中央署員がそれぞれ出廷し、実況見分調書に関して証言した。 1983年(昭和58年)1月13日に開かれた第4回公判では、X事件の実況見分調書に関して当時の戸塚署員が証言を行ったほか、被害者遺族である男性D(A・B姉妹の父親でCの夫)も証人として出廷した。第5回公判(1983年2月3日)でも、前回から引き続き男性Dの証人尋問が行われ、DはFが一家皆殺しを決意した日(1982年5月8日)夜の出来事について証言し、さらに検察官・裁判長から「(被告人Fについて)どう思うか」と質問され、「妻子と同じように殺してやりたいと思う」と答えた。しかしこれに対し、証言台の後ろ(被告人席)にいたFは「冗談じゃねえよ、やっちゃあいねえよ」「拷問だ」などと叫び、小川裁判長から退廷を命じられた。 第6回公判(1983年3月7日)では、被告人Fによる被害者Aへのつきまとい行為を立証するため、茅ヶ崎高校の事務職員・担任教諭と、5月8日の通報でA宅に駆け付けた藤沢署員の計3人が出廷した。同日、Fは小川裁判長から「勝手な発言をしないように」と注意されたが、証人の証言中に何度も発言を求め、最終的に小川から再び退廷を命じられた。Fが退廷させられた後、被害者少女Aの担任は「Aは人を疑うことを知らない性格で、(Fからの)逆恨みで殺されたとしか思えない。『自分を大事にすることは、相手の立場に立って理解することだ』と教えたことが仇になってしまった。これから『見知らぬ人に声をかけられた時の対応』などをどうやって教えていけばいいのか」と述べた。 第7回公判(1983年3月31日)では3人(藤沢事件直後にFとYを乗車させたタクシーの運転手ら)が証人尋問を受けた。同日、弁護人が「5分程度、Fの言い分を聞いてほしい」と求め、小川は陪席裁判官2人と協議した上で発言を許可したが、Fは「拘置所内で腹が痛くても寝かせてもらえなかったり、担当(の刑務官)から暴行を受けたりした。自分の身分を保証してほしい。」などと訴えた。その後、Fはそれまでのような不規則発言はしなかったが、前回および前々回公判で見送られていた証拠物採用に当たり、「凶器の包丁・くり小刀」「切断された電話線」「被害者少女Aの日記帳」などに関して、それぞれ黙秘する旨を表明した。 第9回公判(1983年5月17日)では警察官など、事件関係者5人が証人として出廷し、被告人Fが犯行時に使用した手袋が大磯駅付近のトイレから発見された経過などを証言した。しかし同日、Fは突然発言を求め、「弁護人(本田)を解任したい」と訴え、小川から諭されても「弁護人を変えてくれなければ、次回は出廷しない」などと譲らなかった。最終的に、小川は被告人Fに対し、(弁護人の解任申し立ては)理由を書き、上申書として裁判所に提出するように伝えた。結局、藤沢事件から1年が経過した第10回公判(1983年6月2日・証人尋問)でも本田は解任されず、Fも不規則発言などはせず、神妙に公判に臨んだ。しかし、当時のFは裁判長宛てに拘置所内での出来事や、法廷での公判内容の不満を上申書に書き、横浜地裁へ送ることが唯一の楽しみになっていたため、本田は『読売新聞』の取材に対し「最近のFの言動は自分にも理解できない」と困惑していた。第11回公判(1983年7月21日)では神奈川県警鑑識課員らが証人として出廷し、母娘3人殺害事件の現場から採取された指紋・足跡などの鑑定について証言した。それまでの公判で弁護人はほとんどの証拠採用に同意しなかったが、証人の証言・検察官により提出された物的証拠、Fが犯行時に手に負った傷の鑑定などにより、事件の全容は解明されていった。 初公判から丸1年となる1983年10月11日に第13回公判が開かれ、被告人Fの実母が検察側証人として出廷した。同日、Fの母は息子の交友関係などについては特に躊躇なく証言したが、「藤沢事件当夜の息子の行動」に関して「Fは事件当夜、自宅に帰ってきたのか?誰と一緒に帰宅したのか?」「手に怪我をしていたのか?」など、事件の核心に触れる質問をされると証言を拒否し、事件直後に自らが述べた検察官調書の内容についても「記憶にない」と繰り返した。しかし、小川裁判長が改めて検察官と同じような質問をすると、一転して「息子は事件当夜、自宅に帰ってきた。右手親指腹・左手首の怪我には薬を塗ったが大した怪我ではなかった」などと明確に回答した。その後、検察官の質問が再開された際には証言を拒否しなかったが、検事調書の内容に関して「事件直後の調べに対し『帰宅した息子が被害者母娘の殺害を告白したため、自首を勧めたが聞き入れられなかった』と述べたことに間違いはないか?」と再度質問されると、「殺人の告白・自首を勧めた事実ともにない。しかし警察の話から『3人を殺したのはFではないか?』と思い、夫と心中しようとした」と証言した。続く第14回公判(1983年10月31日)では被告人Fの実父が証人として出廷し、事件当時の様子に関しては妻(被告人Fの実母)とほとんど同様の証言をした。また、Fの生い立ちに関しては「息子には親としての愛情を注いだが、成長するにつれて持て余し気味になり、息子の行動にあまり関与しなくなった」、「息子が家にいると、常に家庭内が不穏な状態になり、少年院入院時には平穏を取り戻していたが、息子の性格は少年院を退院する度に悪化していった。自分たちにも『なぜ手が付けられない性格に育ったのか?』という原因は思い当たらず、息子自身の生まれつきの性格としか思えない。息子が成長するとともに、親子喧嘩の際も自分が圧倒されるようになり、家族が危険な状態に陥っていった。息子が真犯人でないことを願ってはいるが、親としての愛情は感じていない」と証言した。 1984年(昭和59年)4月26日に開かれた第20回公判で、陪席裁判官2人の交代に伴う公判手続きの更新が行われ、検察官が改めて起訴状に基づく公訴事実の要旨を述べた。被告人Fにもそれに対する陳述機会が与えられたが、被告人Fは「初公判の際、法廷でVサインをしたのは、同じ留置場に入っていた暴力団組員から脅されたためだ。被害者5人を殺害した真犯人は茅ヶ崎市内在住の人物で、いずれの事件も数人の人間から目撃されているし、自分も事件現場でその人物を目撃していた。留置場で前述の暴力団組員にその事実を話したところ、その組員から『俺の親戚の名前を聞き出したらただでは済ませない。地下室で拷問してやる』と脅されたため、今まではこのことを話さなかった。自分は無実だ」と陳述した。さらに第23回公判(1984年7月24日)で被告人Fは、被害者一家のことは自分は知らない。真犯人は(第20回公判で言及した)前述の茅ヶ崎の人間で、真実を喋ればあいつに殺されるから黙っていた」と陳述した。遠藤允 (1988) は一連のFの発言について、「当時、Fは常識の枠を超える夢想発言をしていたが、もしかすると拘禁症状(ノイローゼ)を発症していたのかもしれない」と評している。 藤沢事件に関する審理は同年秋までに終了し、X・Y両事件の審理に移行した。さらにその後、1985年(昭和60年)秋には殺人3件のほかに起訴されていた窃盗(ひったくり)に関する審理へ移行した。
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