被害者一家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 08:12 UTC 版)
「市川一家4人殺害事件」の記事における「被害者一家」の解説
本事件の被害者一家は事件当時、現場となった市川市幸二丁目5番1号のマンション「行徳南スカイハイツ」C棟(座標)の806号室に、3世代5人で居住し、慎ましくも平穏な暮らしを営んでいた。このマンションは、営団地下鉄(現:東京メトロ)東西線の行徳駅から南東約1 km離れた、東京湾沿いの埋立地にある高層住宅街の一角に位置する9階建てのマンションで、市川水路(座標)に面していた。 A・D夫婦は1987年(昭和62年)3月に結婚し、同年8月に雑誌の出版・編集などを手掛ける株式会社「ルック」を設立。Dが代表取締役、Aが取締役をそれぞれ務めていた。 一家が居住していた806号室は事件後、1年以上空き部屋になっていたが、事件から10年が経過した2002年4月26日時点では、別の住民が入居している。 男性A 1949年(昭和24年)8月10日生まれ(42歳没)。Dの夫およびB・E姉妹の父親で、Cの息子。 群馬県で生まれ、立教大学を卒業後、性風俗関係の雑誌で取材・撮影をしており、三浦和義のスワップ写真を撮影したこともあった。三浦のスワップ写真は1983年4月16日、当時『週刊大衆』と契約関係にあったAが、スワッピングパーティーに参加していた三浦の全裸の姿を撮影したもので、同誌1984年2月20日号や『Emma』1985年10月10日号(文藝春秋)に掲載されている。その後、仕事を通じてDと知り合い、1987年に結婚。Dの連れ子であるBのことも実子同然に可愛がっており、仕事仲間に対し「結婚したら大きな娘が出来ちゃったよ」と自慢していた。結婚後、年頃の娘を持ったことから、風俗関係から離れ、事件の数年前からは料理専門のフリーライター・カメラマンに転身し、『月刊食堂』(柴田書店)で飲食店を取り上げる「繁盛の秘訣」という連載記事を手掛けたり、漫画誌のグルメ欄などを担当したりしていた。『月刊食堂』の元編集長・玉谷純作に対しては、「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。〔事件の発生した〕1992年にEC統合があるので、あちらに拠点を持って活動したい」と話していた。 3月6日0時30分ごろ、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した。死亡した被害者4人の中で、3番目に殺害された犠牲者である。 少女B 1976年(昭和51年)3月19日生まれ(事件当時15歳)。A・D夫婦の長女で、Cの孫、Eの姉に当たる。 母Dと前夫との間に生まれ、DがAと結婚した際、Aと養子縁組して改姓した。事件当時は船橋市内にある県立高校の1年生で、クラスの副委員長をしたり、演劇部や美術部で活動をし、将来は美術関係の大学に進学を夢見るごく普通の女子高校生だった。中学時代の3年間は毎日、妹Eを保育園のバスで送迎しており、事件直前には小学校の同級生に対し、「将来はお母さんと同じカメラマンになりたい」「新しいお父さんも本当のお父さんのように優しい」と話していた。 被害者一家5人の中で唯一生存したものの、本事件前にSによって2回強姦され、本事件では目の前で母親D、父親A、妹Eを次々に殺害され、その間にも強姦被害を受けた。事件後、熊本県の母Dの実家に引き取られた(後述)。 女性C 1908年(明治41年)7月4日生まれ(83歳没)。Aの母親で、Dの義母、B・E姉妹の父方の祖母に当たる。 横浜の資産家の娘として生まれ、東北出身者であるAの父親と結婚し、夫が電気絶縁材料を扱う大手メーカーの工場で働いていた時期に長男Aを出産した。しかし、夫はAが中学生の時、胸の病気を悪化させて亡くなっており、それ以降は東京で、女手一つで息子を育てていた。事件当時は高齢だったため、散歩に出る時以外は玄関北側の自室で過ごすことが多かった。 3月5日16時30分ごろ、806号室に侵入してきたSによって首を絞められて窒息死した。死亡した4人の中で最初の犠牲者である。 女性D 1955年(昭和30年)6月19日生まれ(36歳没)。熊本県八代市出身。Aの妻で、Cの義理の娘、そしてB・E姉妹の実母である。 地元の高校を卒業後に結婚したが、長女Bを出産した直後、夫が真面目に働かないことに業を煮やして離婚した。それ以降、20歳代前半で上京すると、女手一つでBを育てつつ、証券会社の事務職、建設会社の経理、ダンプカーの運転手、水商売などの職を転々とし、千葉市栄町の風俗店に勤めていたころ、客からの勧めで、風俗誌などのルポライターに転身。「中村小夜子」のペンネームで、夕刊紙にソープの探訪記事を書いたりしていた。その後、Bが小学校5年生の時、仕事を通じてAと知り合い、結婚。次女Eを出産後は、夫とともに料理関係のライターとして働いていた。 3月5日19時過ぎごろに長女Bとともに帰宅した直後、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した。死亡した4人の中で、2番目に殺害された。 女児E 1987年(昭和62年)3月17日生まれ(4歳没)。Bの妹で、Cにとっては2人目の孫である。 A・D夫婦の間に生まれ、事件当時は東京都江戸川区内の保育園に通園していた。 3月6日6時30分ごろ、Sに柳刃包丁で背中を刺され失血死した。死亡した4人の中で最後に殺害された。
※この「被害者一家」の解説は、「市川一家4人殺害事件」の解説の一部です。
「被害者一家」を含む「市川一家4人殺害事件」の記事については、「市川一家4人殺害事件」の概要を参照ください。
- 被害者一家のページへのリンク