一家の家庭事情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:55 UTC 版)
「青森県新和村一家7人殺害事件」の記事における「一家の家庭事情」の解説
Mの父親であり、被害者一家の主であった男性X(犯人Mの父親:当時57歳)は、1町3反(約1.3 ha)の広大なリンゴ農園を有し、小作で0.7 haの水田も耕作していた農家で、1953年のリンゴの収穫は、早生リンゴから紅玉、国光などを併せて2,000箱余りだった。当時、X一家の財産は時価数百万円(2015年時点では1億円以上に相当)の価値を有していた。また、Xは村の顔役として、消防団長を務めたこともあった。 しかし、Xは生来、吝嗇怠惰で酒癖が悪く、妾を蓄えて家庭を顧みないことが多かったため、家庭内は風波が絶えなかった。また、Xは自身の非を決して認めない頑固な性格で、「気に食わない」という理由で一方的に妻を追い出していた。Xの妻(Mの母親:1954年時点で57歳)は、第一審の公判で「Xとは自分が17歳のころに結婚し、子供を13人産んだ仲だったが、若い頃から女遊びに夢中だった」「Xとは38年間一緒に暮らしていたが、兵隊から帰ってきてからは仕事をせず、娘が嫁ぐときにも1つも世話してくれなかった。そのため、自分が手間取りなどをして生計を立て、娘の結婚資金も稼いでいた。また、Xは女癖や酒癖が悪く、自分が28歳の時に近所の未亡人と関係していたところを見たのを見つけられ、『お前を焼き殺してやる』と脅されたり、酒に酔っては火箸を持ったり、焼けた木を振り回して自分を叩いたりしたこともあった。あまりの恐ろしさに、着の身着のまま長男A1や娘(Mの姉の1人)を抱いて、近所の家の軒下に筵を敷いて、朝までいたこともあった。1951年(昭和26年)の秋、Xが飲酒して暴れ、鋸や火箸を振り回してきたりしたため、我慢できずに家を出た」と証言している。一方、彼女は「Xは子供たちに対しては、殴るようなことは全然しなかった」とも証言している。仙台高裁秋田支部 (1957) は、「Xの虐待に耐えかねた母親(Xの妻)は、1951年(昭和26年)11月ごろに単身実家へ帰り、事実上夫婦別れした」と認定している。
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