一家の相談役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/27 22:30 UTC 版)
1957年、ジェノヴェーゼがフランク・コステロを引退に追いやってボスになると、一家の相談役に抜擢された。コステロの暗殺未遂やアルバート・アナスタシア暗殺に関与した最重要参考人として警察の取調べを受け、マスコミの注目の的となった。1957年11月、アパラチン会議に参加したが、警察の手入れにあい、他のマフィアメンバーと共に拘留された。 1960年2月、ジェノヴェーゼが麻薬の罪で監獄入りすると、副ボスのジェラルド・カテナやボス代行のトーマス・エボリらと共に獄中のジェノベーゼの代役を務めた。1965年トーマス・エボリらと共に行った会合は警察に捕捉され、逮捕されたが1週間で釈放された。1966年9月22日、クイーンズのイタリアンレストランLa Stellaで行われたコミッションにエボリと共に参加したが、ミランダを尾行していた刑事の通報で警察に摘発され、カルロ・ガンビーノ、アニエロ・デラクローチェ、ジョゼフ・コロンボ、カルロス・マルセロ、サント・トラフィカンテなどと共に拘留された(新聞等で「リトル・アパラチン」と言われた)。 ミスター・ビッグと呼ばれ、1960年代から1970年代にかけて、ガンビーノやステファノ・マガディーノと並んで、コーサ・ノストラの重鎮として振る舞った。1969年にジェノヴェーゼが死去した時、後継ボス候補の1人と見られたが、すでに齢七十を超えていた。1972年、病気を患い引退し、翌年フロリダで死去した。 戦後、クイーンズのフォレストヒルズの高級住宅街に7万5千ドルの豪邸を構え、ロング・ビーチに別荘を持っていた。フォレストヒルズの隣人にコステロの賭博仲間フランク・エリクソンがいた。生涯7回逮捕されたが、刑務所暮らしは2回だけ、1915年のコニーアイランドのスリで30日、1957年のアパラチン証言拒否で2年だった。表向きの職業は中古車セールスマンだった。
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