一家六人殺害事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/09 12:24 UTC 版)
「北九州監禁殺人事件/del20140716」の記事における「一家六人殺害事件」の解説
父C死亡事件 1997年12月21日、Xは土地の売却が阻止された責任にY一家の家長であるCに責任であるとして、Yを通じてCを通電させた。 その結果、Cは死亡した(第2の殺人。ただし、裁判では傷害致死と認定)。 Gがかつて願い事を聞いてくれなったCについて「おじいちゃんなんか死んじゃえ」と言っていたが、Xがそのことを持ち出して「GがCの死を望んだから死んだんだ」と主張してGに罪悪感を植えつけた。 死体解体中にクリスマスやXの長男誕生日の記念撮影が行われた。 母D殺害事件 1998年1月20日、度重なる通電によって奇声を発するようになったYの母親Dの処遇について、XはYとその妹E及びEの夫Fに対応策を練らせた。Dの処遇についてYらが精神病院入院や別の住居に引っ越すなど殺人以外の方法を提案したがをXはことごとく却下し、Yらが殺害を提案すると「一家の決断であること」を強調した。Fが「Dがよくなるかもしれないので、もう少し様子を見るべき」と主張したことに対し、Xは「今は暴れていないが、殺す段階で暴れるようになったら、殺害が困難になる」とまくし立てた。さらにXは「どうやって殺すんだ」とYらに考える余裕を与えさせないまま、殺害を既定方針として進める。Yらは部屋にあった電気コードをXの許可を得て借りたが、Yが解体道具購入を優先することを提案した際にはXは「買いに行っている間に声が外に漏れたらどうする?」と殺害を優先するように暗に要求した。 YとEに体を押えつけさせた上でFに絞殺させた(第3の殺人)。 妹E殺害事件 1998年2月10日、別のマンションに移動した後、Xの指示の解釈をめぐって娘のGと口論になったE(度重なる通電によって耳が遠くなっていた)に対して、XはEのことを「おかしくなった」などと因縁をつけはじめ、Yに「Dみたいになったらどうするんだ」とEの死を連想する言葉を口にした。そして、XはYに対して「今から向こうのマンション(殺害が行われた場所)に行く。どういう意味がわかるな?」とEの殺害を示唆した。Xは殺害現場のマンションに移動した後で「俺は今から寝る。今から一家で結論を出しておけ」「俺が起きるまでに終わっておけ」とYらに指示した。この言葉をXからの殺害の命令と受け取っていたYとFとGは3人の話し合いの中で「Eの殺害を拒否したいが、Xの曖昧な提案の詳細を聞こうとすると通電される」「たとえ、殺害を拒否しても、Eはもっと酷い虐待を受けて辛い思いをした末に殺されるのではないか?」と悩んでいた。話し合いの結果Yら3人はXに話の中身を聞きに行くことになったが、Xの部屋に向かうドアが開かなかった。Yは「Eの処遇について終わっていないと自分たちも酷い目にあうし、Eは生きていてもXから虐待を受けて辛いだけ」とFに切り出すと、Fが「それなら自分がやる」とFがEの殺害を決意。Fは娘Gに対して、「お父さんが首を絞めるから、おまえは足を押さえて最後の別れのあいさつをしなさい」と問いかける。Eがいる浴室にFとEが入り、FがEの頸にコードをかけようとした瞬間、Fを凝視して「F、私、死ぬと?」と呟くEに、Fが「E、すまんな」と答え、Gに足を押えつけさせた上でFに絞殺させた(第4の殺人)。 E殺害直後、Fはすすり泣いて「とうとう、自分の嫁さんまで殺してしまった」と呟いた。 義弟F殺害事件 FがXによる度重なる通電と食事制限で度々嘔吐や下痢をしていた。一時的に症状がおさまると大分県中津市にXの愛人に会うために車の送迎をすることになる。Xが愛人と会っている間、Fは監視役のYと共にレストランに行き、間をもたせるために量の多いセットものを注文して食べるようにXから指示され、丼と小さいうどんのセットとメンチカツを食べる。 小倉に帰ると浴室に閉じ込めたFの嘔吐がひどくなったので、Xが当初は胃腸薬を飲ませていたが、症状はおさまらず、上半身を起こすことができなくなり、吐いてもすぐに吐き気を催し、吐くものがないのにむせている状態が続く。 1998年4月13日、FはXから与えられた眠気防止ドリンクと500ml缶ビールを全部飲みほした(YはFが飲んだ現場を直接目撃していないが、カラになったビール缶を降って浴室から戻ってきたXを見ている)。ビールを飲ませて1時間後、Fは浴室で衰弱死した(第5の殺人)。この際に、娘のGがXに対してFの死亡報告をしている。 Yは日々悪化するFについて「死亡2日前には病院に連れていかないと死んでしまうと思ったが、母Dの時に病院に入院させる提案がXに拒否されたので、Fを病院に連れて行こうと考えなかった」と回想しており、殺意について未必の故意を認めていた。また、Xは「死ぬと思ったから、最後にビールを飲ませてやった」「(浴室から物音が全く聞こえなくなった状況について)もう死んでるんやないか」とAに言っており、XもFが死ぬことを認識していた。 裁判ではFの死因は「高度の飢餓状態に基づく胃腸管障害による腹膜炎であった」と考えるのが妥当とされた。 甥H殺害事件 Fの死亡によって、大人はXとYの2人だけになり、他はXの子供2人とAとGとHと子供しか残らなかった。Xの子供2人と世話役のAは優遇されたが、GとHは悲惨な境遇に追い込まれることになる。 Fの死から1ヶ月後、Xは「Hは罪になるようなことはしていない」「子供に情けをかけて殺さなかったばかりに、逆に大きくなって復讐されたという話もある」「そうならないためには早めに口封じをしなければならない」と言い、Yは生きていても虐待させられるだけと考えたため「そうするしかないですね」と同意した。 1998年5月17日にGはXに対して、「このことは誰にも言いません。弟Hにも言わせません」として自宅への帰宅を願い出たが、Xは「死体をバラバラにしているから、警察に捕まっちゃうよね。Hが何も喋らなければいいけど、そうはいかないんじゃないかな」「俺やG自身に不利益が生じるが、責任が持てるの?」と尋問し続ける。そして、Xが「Hは可哀相だから、お母さん(E)のところへ行かせてやる?」と暗にHを殺すことを命じ、Gは「そうします」と答えた。Yは「自分ひとりでHを絞める」と言ったが、Xは「YとG二人でやれ」と指示を出し、今までC一家の死亡に一切加担していなかったAにも参加するよう促した。GはHを台所の床に仰向けに寝かせるように指示し、Hに「お母さん(E)のところに連れて行ってあげる」と嘘をついて、Aが足を押さえた上でGとYが二人がかりでHを絞殺した(第6の殺人)。 Aの証言では大筋ではYの証言と一致しているが、Aは「殺害場所が台所ではなく浴室」「殺害においてYはGと2人で絞殺したのではなく、Gが1人で絞殺してYは手首を押さえていただけ」と証言している点がYの証言と異なる。裁判ではYの証言が採用された。 姪G殺害事件 XはGに通電を繰り返して衰弱させ、「太っていたら大変だろ?」という理由でGの食事の量を減らした際に、Yは「太っていたら解体に困るので、XはGの殺害を考えている」と考えた。またGだけがいない場面でXはAに向かって「アイツは口を割りそうだから処分しなきゃいけない」「アイツは死ぬから食べさせなくていい」とGの殺害に関する発言をした。YはH殺害事件直後に解体道具を多めに買うようXが指示を出したことがGの死体解体準備と認識した。 1998年6月7日にXは浴室でGと2人きりで何度も話し合った後で「Gは死にたいと言っている」としてGが頷き、YとAがGを絞殺した。その際、Gは静かに横たわり、首を絞め易いように首を持ち上げたという(第7の殺人)。 Aの証言では大筋ではYの証言と一致しているが、Aは「XがGに通電し続け、全く動かなくなったGにYと共に首を絞めた」と証言し、一部がYの証言と異なる。裁判ではYの証言が採用された。 上記の事件について、XがYとその一族に遺体の解体を命じた。 F夫婦一家は熊本県玉名市内の賃貸アパートの家賃が1998年3月に振り込まれて以降、連絡が途絶えたためことに不審に思った管理人が合鍵で室内に入りランドセルや携帯電話が確認された。 C一家6人の失踪後、北九州市小倉北区内の駐車場でC名義の乗用車が見つかった。駐車場の管理人から連絡を受けたCの親族が車を引き取った(この車は2002年に事件発覚した際には警察に任意提出された)。
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