北九州監禁殺人事件/del20140716
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北九州監禁殺人事件(きたきゅうしゅうかんきんさつじんじけん)は、2002年(平成14年)3月に北九州市小倉北区で発覚した監禁、殺人事件である。
概要
人の弱みにつけこんで監禁をして金を巻き上げ、拷問と虐待によってマインドコントロール下に置き、お互いの不満をぶつけさせることにより相互不信を起こして逆らえなくし、被害者同士で虐待をさせることで相互不信を一層深くさせ、自分の手は汚さずに用済みとなった人間を殺害して死体処理を行わせた(裁判では6人の殺害と1人の傷害致死)。犯罪史上稀に見る凶悪犯罪とされ、第一審で検察側は「鬼畜の所業」と被告人男女を厳しく非難した。
非常な残虐性・悪質性にもかかわらず、事件に報道規制がかけられたとされ、事件の知名度は高くない。当初は地元の報道機関を中心に報道をしていたが、途中から報道機関が自主規制して報道量が少なくなり、全国の報道機関での集中報道に結びつかなかったといわれている。報道量が少なくなった理由としては「あまりにも残酷な事件内容のため表現方法が極めて難しいこと」「家族同士が殺しあった事件の性格から被害者遺族がメディアに積極露出をして被害を訴えづらいこと」があるとされている。
人物
便宜上加害者と被害者としたが、状況に応じて加害者Yが被害者になったり、被害者が加害者になったりした。加害者に指図されて被害者が別の被害者を殺害するような展開があったからである。
加害者X
7歳の時に父が実家の家業を引き継ぐため柳川市に転居。小学校の全学年で殆どの科目でオール5であり、学級委員長や生徒会役員を務め、中学校1年生時には校内の弁論大会で3年生を差し置いて優勝し、中学では部活でキャプテンを務めた。
Yと同じ高校に進学し風紀委員長になるも、不純異性交遊が発覚して男子校に転校させられた。転校先の高校を卒業して父の店を受け継ぎ、家業を布団販売業に転換するも、1992年に指名手配されるまで詐欺商法を繰り返す。1980年に結婚して1男をもうけるが、1992年に離婚。その後に内妻Yと2男をもうける。
病的な嘘吐きで自意識が強く目立ちたがり屋。饒舌でいくつもの顔を持ち、エリートを演じる傾向がある。礼儀正しく愛想が良いが、猜疑心・嫉妬心が強い(アフェクションレスキャラクターの傾向) 。異常なまでに執念深く嗜虐的。神経質で臆病な面もあるが虚勢を張る。
Xは「東大卒のコンピューター技師」「京大卒の予備校講師で物理学者の逸材で小説家志望」「実家は村上水軍の当主」「兄は東大卒の医者」など様々な嘘の経歴を名乗っていた。
Xは容姿や話術から女性から好感を持たれる魅力があり、それにより様々な女性遍歴があった。Xは同時に複数の女性と肉体関係を持っており、交際女性とその母親と同時に肉体関係を持っていることもあった[1]。しかし、Yと元妻はXが同時に複数の女性と肉体関係を持っていることを知っていたが、中々Xと別れようとしなかった。また、Xの証言によると、この事件関係者である内妻のYの家庭については、YだけでなくYの母DやYの妹Eとも同時並行で肉体関係を持っていた。Xはこのことについて「奇妙な人間関係」と表現している。死亡したYの母DやYの妹Eの肉体関係については相手が誘ってきたとXは主張しているが、Yや元妻などXと交際して生存している女性によると交際のきっかけはXから誘ってきたと述べている。
事件発覚後に元妻は「Xは自分を"世の中の救世主"と語っていたが、Xと出会った人は全員不幸になった」「Xによっていつか死人が出ると思ってた」「多くの嘘で上塗りをしていくと、Xの中では本当のことになる」「あんな人間、二度と出てこない」という言葉を残している。
両親を含めた親族は取材を拒否している。なお、Xが経営していた会社の元従業員は「Xは暴力団幹部と付き合いがあった。Xの実父からピストルを見せられたことがある」と法廷で証言している。
加害者Y
従順で没個性的。殆ど叱られたことがなく、学校の制服や髪型を全て規則通りにする真面目な性格。高校時代は男性と交際はなかった。短期大学を出て幼稚園教諭になる。
Xの内妻となり、Xの子を妊娠した際にはXが人工妊娠中絶を勧めるも、Yは1993年1月に長男を、1996年3月に次男をそれぞれ出産した。子供好きであったため、「どんなにひどい状況でも子供達に接している時だけ忘れられた」と語っていた。しかし、逆に子供達の存在が、Y一家の家族を脅す材料としてXに利用されるようになった。指名手配後にXの愛人を含めた他の人間に会う時はXの知人もしくは姉と名乗っていた。
一連の事件解明における最重要証人の1人。
Xからの虐待で喉を攻撃されて40代ながら老婆のような声になり、通電で右足の小指と薬指が癒着し親指の肉が欠けていたことが明らかになっている。
被害者
- A - XとYに虐待され、2002年に脱出した少女。1984年生。Xの支配下の間は小学生時代から酒を飲まされ、夜中の4時頃に寝て朝7時に起こされて登校した学校で居眠りをし、貧血を起こしたり吐き気を催したり、生理が3ヶ月遅れ、クラスで2番目の高さだった身長が殆ど伸びなくなりクラスで2番目の低い身長になり、1997年から2000年までの中学生3年間は約180日欠席するなど、学校に通いながらも身体を含めて生活に悪影響が出ていた。XとYの子2人を含めた4人の子の子守役をしていた。一連の事件解明における最重要証人の1人。19歳時の2004年に法廷で証言音声が流れたが、司法記者達は「19歳にしては幼い気がした」と語っている。
被害者であるが死亡せずに生存した。報道機関や書籍では実名表記はされていない[2]。 - B - 元不動産会社勤務。Aの父。1961年生でXやYと同学年。1番目に死亡。
死亡した被害者であるが他の死亡者と異なり、報道機関では顔写真が非公開で実名表記が伏せられており、顔写真や実名表記は一部書籍のみとなっている[3]。 - C - 農協系土地改良区副理事。Yの父。1936年生。久留米市の集落一族の本家で、父方の祖父は村議会議員を務めるなど名家。兼業農家の傍ら、民間企業労組委員長を経て、農協の幹部になる。愛妻家。プライドが高く、心配性で世間体を気にするタイプの一方で、我慢強く、痛くても口や顔に出さない性格。2番目に死亡。
- D - 主婦。Yの母。Cの3歳年下。久留米の農家出身。地元高校卒業後にCの家に嫁入り。良妻賢母だが、気丈な性格。XとYとの交際を話し合う際に肉体関係を結んで人生が暗転。Xによる支配下で夫の死体処理に関与。3番目に死亡。
- E - 歯科衛生士。Yの妹。1965年1月生。同級生の友達と比較すると真面目ではあり親の前では大人しかったが、姉Yと比較すると親に隠れる場所では活発で遊び好きであった。また結婚前に妊娠中絶経験をし、結婚後も職場不倫をするなど複数の男性と肉体関係があった(このことが夫Fとの夫婦仲を悪化させて事件が早期露見せずに一層深刻化させる要因の一つとなった)。Xによる支配下における外出では主に買い物役を担当。母Dの絞殺において足を押さえる役で1人の殺害に関与し、2人の死体処理をした。4番目に死亡。
- F - 農協系土地改良区事務所職員。Eの夫で、Yからみて義弟にあたる[4]。1959年4月生。久留米市出身。実家は農家で次男。地元の高校卒業後に千葉県警警察官になるも、父親の看病を機に退職して実家に戻ってCが勤務する農協の職員となり、婿養子という形で1986年にEと結婚。気がやさしく生真面目な性格。Xによる支配下における外出では主に車の運転手役を担当。義母Dと妻Eの2人を絞殺し、3人の死体処理をした。5番目に死亡。
- G - 小学生。EとFの長女。Yからみて姪にあたる。Yの家族と親しくなかったAは3歳年下の同性のGとは親しく、GLAYファンのAはSPEEDファンのGと流行歌について語り合った。弟Hを絞殺・母Eを絞殺の際に足を押さえることで2人の殺害に加担し、5人の死体処理に関与。7番目に死亡。
- H - 保育園児。EとFの長男でGの弟。Yからみて甥にあたる。Yの家族の中で唯一通電を受けず、事件現場を直接目撃しなかった。6番目に死亡。
事件
XとYの交際 & Y虐待事件
- XとYの交際
- 1980年夏にXが転校前の高校卒業アルバムを入手して同級生のYに電話。YはXとは異なるクラスであり言葉を交わしたこともなかったが、文化祭で注目されていたことを思い出し、会うことになった。
- YはXと2回目に会った時に「結婚を考えている相手がいる」と打ち明けられる。これはYの心を揺さぶるXの狙いがあったとされるが、恋愛感情の無いYはXの話に淡々と対応した。車で帰る際にXは車を停めて助手席のYに強引にキスをしようとしたが、この時はYが拒絶した。二人が3回目に会った時に、Xは男性交際に慣れていないYを強引に誘ってラブホテルで肉体関係を結び、YとXの交際が始まる。
- 1984年夏にYは叔母に子持ちの妻帯者Xとの交際を打ち明けたことがきっかけで、Yの親であるCとDの耳に入り、CとDはXが妻帯者でYとの交際が不倫関係になっているためにXと別れるようにYに求めた。またXがCの資産状況だけでなく、Dの実家の資産状況をも調べており、そのことを知ったDは私立探偵にXの調査を依頼していた。しかし、1984年8月にXがYの親C・Dに会った際に礼儀正しく好青年らしく振る舞ったり、妻と離婚してYと再婚して婿養子入りすることを約束する「事実確認書[5]」を作成したことで、CはXを気に入るようになり、DもXに対する姿勢を軟化させた。
- YはXとの肉体関係について「"いずれ養子を迎えて家を継がなければならない"と自覚しているため、Xとは結婚できる相手ではない不倫関係であるため、"恋愛におぼれてはいけない"と自制していた。でも親が養子縁組した相手と結婚するまでに、"1度くらいは恋愛経験をしてみたい"という気持ちがあった」「Xから妻との離婚について計画を聞かされる一方で自分にプロポーズしてきたため[5]、"不倫だから申し訳ない、結婚を望むのはいけない"という気持ちが無くなる一方でXに対する恋愛感情がだんだん大きくなり、自制心が薄らいでいった」と述べている。
- Y虐待事件
- XはYに当初はやさしく対応していたが、Yが昔交際していた男友達の話をしたのをきっかけに暴力をふるうようになり、Yに古い日記帳を持ってくるように命じ、事細かに詰問しながら殴打するようになった。Xに信用してもらえる方法を懇願したYに対し、Xは右乳房への煙草の痕、右太股の刺青にそれぞれ自分の名前を刻ませた。また、YはXの指示であらかじめ用意していた文章を読み上げる形でYの知人男性達を罵倒し、関係を絶った。
- 1985年2月にXから暴力を受けていたYは勤務先の幼稚園で心労と睡眠不足による過労で倒れ、数日後の2月13日に実家で自殺未遂事件を起こす。この際にYの親は救急車をサイレンを鳴らさないように求めるなど世間体を気にしていた。
- XはYを2月15日に退院させてCの家に戻さずに自分のアパートに連れ帰り、「自殺されたら原因を探られ、自分も警察に呼ばれて迷惑だ」としてYに対する暴力をさらに加速させる、Xは自殺未遂だけでなく、不倫関係が妻に発覚したら損害賠償を請求されると脅したり、Yの裸写真をカメラ撮影した。さらにXはYを幼稚園教諭を辞めさせて自分の会社で働かせる一方で、Yを実家との関係を絶つために分籍させた。
XとDとの男女関係
Xの証言によると、1984年秋にYの母Dから「Yと別れて欲しい」と持ちかけられたという。DとしてはXが妻と離婚してYと再婚して自分の家に婿養子入りすることを約束する「事実確認書[5]」があるとしても、Xの法律婚は継続していたため、Xを完全に信用していなかったと思われる。
Xの証言によると、XはD(当時44歳)に人目のない所で話がしたいと持ちかけ、Dを郊外のラブホテルに連れ込んで肉体関係を結び、その後は会うごとに肉体関係を結んだという。一方で「母DはYを心配しておらず、Xに会いたがっている」とXから聞かされたYはDに嫌悪感を抱き、日記に「同じ血が流れているのが嫌になる」と書いている。Dのこの対応で、結果としてXが1992年までの数年間法律婚を継続したまま娘Yと母Dと同時並行的に男女交際が継続となったために問題は一層複雑化し、娘Yと母Dに緊張関係を生じさせる素地を形成した。またXとDの関係は地元では噂になっていた。
なお、Yは事件による逮捕後の法廷証言ではXと母Dの男女関係のキッカケについて「同意による関係でなく、強姦という形で関係を持った」と推測し、母Dについて「私がXと男女関係をもったために、母DはXと男女関係になり虐待されて殺害されるという形で事件に巻き込んでしまった。もし、母がXと男女関係を続ける中で女として悦びを感じる瞬間があったとしても、私は母を恨んだり憎んだりしません」と擁護した。XはDとの肉体関係についてはDが積極的に誘ってきたのがキッカケと主張しているが、検察はYが主張する強姦説を取っている。
XとDの関係について、マスコミには「想像できないような大変センセーショナルな内容」「ミイラ取りがミイラになる男女の仲」「Xは愛人Yの母Dとも20年来の愛人であった」「母DはXがこしらえた舞台で右往左往する大役を演じた」と表現された。
妹EとFの結婚
CとDは長女Yの結婚相手を跡取りにするつもりだったが、1985年に長女Yが分籍して家を出たために、専門学校を卒業して歯科衛生士になっていた次女Eに見合いを勧める。
1986年7月にEは農協職員Fと結婚し、結婚式では約200人が集まって盛大に行われた。Eは見合いを勧められた当時別に付き合っていた男性がいたが、親が勧める見合い結婚を断る余地はなく、家庭の縛りから逃げられない境遇に涙した。結婚式でEは花嫁として「白無垢」「色打ちかけ」とお色直しをしていたが、3番目は古式ゆかしい衣装である「黒留め袖」であり、Eの友人は前夜まで泣いていたEを思い出しながら「家のしきたりから自由になれない」と感じて涙したという。
FはC・Dと養子縁組して婿入りする形でEと夫婦になり両親C・Dと共に同居する。1987年に長女G、1992年に長男Hが誕生。子煩悩だったE・F夫婦の家庭は外面的には順調であり、Eの友人はEの家族は「仲のいい家族」と見ていた。
一方で結婚式の前にYはXの指示により、自分の実家に「Fの実家に財産をやるのかッ!」「家を滅茶苦茶にしてやるッ!」、Fの実家や仲人の親戚に「財産目当ての結婚だッ!」等度々嫌がらせ電話をかけた。嫌がらせ電話とYが家から勘当を受けているということもあり、Yは妹Eの結婚式に出席しなかった。Fにとって妻Eとの結婚前に家を出ていた義姉Yとは後述の1997年まで面識はなく、義姉Yを「問題を起こす義姉」「一家の厄病神」と見ていた。
Xの結婚と離婚
話は前後するが、Xは高校時代にバス停で出会った年上の社会人女性と3年間交際。1982年に布団販売業を経営していたXは交際相手の女性にプロポーズをして19歳で結婚。
一方でXは他の複数の女性と浮気をして結婚後も不倫を重ねたが、妻はこのことを知っていた。妻は最初の頃は止めて欲しいとXに言っていたが、次第に感覚が麻痺して辛いと思わなくなった。1982年12月24日にはXが入れ込んでいた音楽好きの女性に「バンドをやっている」と口説き、嘘を本当にするために楽器や音響機器を揃えて従業員に1ヶ月特訓をさせ、1100人収容の久留米の大ホールに50人ほどの客の前でバンドの演奏に乗ってXはボーカルを担当し、音楽好きの女性に向けて「最高のイブ!」と声をかけた。この時、ホールの客にはXの子を妊娠していた妻だけでなく、Xと数ヶ月前に肉体関係を結んだ愛人Yがおり、他にも愛人がいたとされる。妻はYとは初対面ではなく、小学生時代に学校で一緒に遊ぶ等の交遊関係があった。妻は後にYがXの事務所に寝泊りするXの愛人と知るようになる。
1983年に長男が誕生したが、恋人時代から続いていたXの暴力は止まらないために妻は逃げ出すことも考えた。しかし、Xに取られたくない子供を連れて逃げるのは難しいと躊躇した。
Yは愛人としてXが経営する事務所で寝泊りをするようになり、妻はYと共にXから度々暴行を受ける。Xに暴行をされた際には妻は大声で喚いたが、Yは声をあげずに耐えており、妻は「Yが暴行に声を上げずに耐える」のを不思議がった。また、妻と子の前でXがYを暴行した際、マヨネーズを台所の床に落として舐めることを命じた事に、妻は「子供の前では止めてッ!」と叫んだが、Yは抵抗する素振りを見せずに床に落ちたマヨネーズを舐め続けた。このようにYと妻は同じように暴行を受けても、Yは妻よりもXに従属的だった。
Xが暴行して入院したYを不審に思った担当医が警察に通報し、警察がXの事務所に来て任意同行を求められる。妻はXの逮捕を確信し「殺人事件とかになる前で本当によかった」とXからの暴力解放を喜んだ。しかし、数時間後にXは逮捕されずに戻ってきた。
Xの義父(妻の父)はXの性格を疑って結婚後も信用しなかったので、Xは義父(妻の父)の前では粗暴な対応を見せなかったが、義父(妻の父)の死亡後にXが実家でも平然と暴力を振るったことがきっかけとなり、妻は長男を連れてXから逃げて警察署に駆け込んでDVの被害申請をし、紹介された相談所で仮住まいをした。Xは居所を突き止めようとしたが、市役所が住民票を移さないまま長男の転校等を特別に許可するなどの対応をとったために難を逃れ、2ヶ月後にXとの離婚が成立した。
事件発覚後に元妻は「もしあの時逃げなければ、私がYのように家族を殺していたかもしれない」という言葉を残している。
詐欺事件・脅迫事件
Xは二束三文の布団を高値で販売するために、暴力や「ヤクザ」という言葉を挙げて客を脅して無理やり布団を買わせるなどの詐欺的商法をしていた。1987年5月には会社を改名し、会社の営業項目は大商社の登記簿をそのままコピーして「貿易業、船舶、石油、航空機、鉄、自動車、海運」となっていたが、詐欺的商法には変わりなかった。
Yは幼稚園退職後はXの会社で働くようになる。Xの会社で働くようになったYは自分を懇意にしていた人物を騙してカードを作って金を詐取し、抗議された際には「うちの会社を潰す気かッ!」「借金返せ!」「どういうつもりなの!」とその人物に逆ギレして怒声を浴びせるようになった。Yのことを昔から知る人物は「まるで別人のように性格が変わった」と述べている。
Xの妻が去ったことで愛人から内妻という立場になった。
Xはこの商売で1億8000万円を荒稼ぎしていた。しかし、この詐欺的商法が警察の知るところとなり、1992年7月に詐欺罪と脅迫罪で警察に指名手配され、XとYは最後まで残っていた男性社員と3人で逃亡する。Xの会社は9000万円の債務を踏み倒す形で倒産した。
XとYは一時的に石川県に逃亡していた。金の工面をしていた男性社員は虐待に耐えかねてXから逃走した。この男性社員への虐待は刑事事件になっていない。
詐欺事件と脅迫事件の指名手配は1999年7月に公訴時効が成立した。
父娘二人監禁事件
XとYはXの出身地で土地勘のある北九州市内に戻り、Xの知人である不動産会社勤務のBに接近。XがBが勤務する不動産会社を通じて複数のマンションを確保し、潜伏アジトとした。契約者の名義はXの複数の交際相手である。Xは予備校講師を偽ってBの姉(Aの伯母)に接近した。Bの姉は夫との不和を相談に乗ってもらい、結果、夫と離婚、Xの交際相手の1人となっていた。Xがマンションを確保する際、不動産会社に勤務するB自身が連帯保証人となることもあった。しかし、仲介者であるB自身が当該不動産の保証人となるこの行為は宅地建物取引業法違反であった。この時にXが確保したマンションの1つが、後に発生する数々の殺害事件の舞台となった。
当時、Bは交際相手である保険外交員の女性と同棲していたが、Xから競馬のノミ屋に関する儲け話に関する新会社設立を聞かされたBは同棲していた女性と別れ、Bの実娘AはYが養育するとしてXが確保したマンションに移り、Bは社宅で過ごしながらXが確保したマンションに通うようになった。
Bはまた、仕事で部屋の消毒作業をしないまま「消毒済み」として工費を着服していた過去があった。酒に弱い体質のBを酔わせ、この事実を聞き出したXは「犯罪だ」とBを追及して弱みを握る。そして、Bは室内ではXからカツラを取られるようになった。Aは父Bはカツラであったことを知らず、Bの禿げ頭を目にして驚いたという。さらに、Bに「娘Aに性的虐待をした」「会社の金を横領した」などと事実と異なる事実確認書を書かせ、弱みにつけこむ。Bが出社できなくなって職場を退職すると、社宅を離れてXらのマンションに引っ越すことになり、Xはさらに虐待を加速させた。
すでにBへの虐待に加担していたYは、Xの不在時もBへの虐待に手を抜かなかったという。これはXが突然現れて抜き打ちのチェックが入り、手加減を見つかればXから制裁を受けるので、それを恐れたためであった。事件発覚後、法廷における証言でAはXだけでなくYのことも「悪魔」と表現した(後述)。この中でも、Bは反抗的態度を一切見せずに、死亡数日前に次男を妊娠していたYに対して「元気な赤ちゃんを産んでくださいね」と言うなど、Yのことを気づかっていた。
1996年2月26日、XとYは通電を繰り返したり、食事を満足に与えないなどBを虐待して衰弱死させた(第1の殺人)。
Xは、YとAに遺体の解体を命じ、Bの遺体は海に遺棄された。Yは身重の身でBの遺体の解体作業を行ったが、解体を終えた直後に陣痛が起こり、大分県の病院に駆け込んで次男を出産している。
XはAに対し死亡直前のBに歯型がつく程噛ませた後に写真を撮り、Aに「父親を殺したことを認める」とする事実関係確認書を作成させ、Bの殺害に加担した罪悪感を植え付けて虐待を繰り返し、監視下に置いた。
母子不審死事件
話は前後するが、Xは死亡前のBによって北九州のマンションを居場所とした後で、同窓生だった女性と接触する。この女性は夫を持つ身であったが、Xから結婚を持ちかけられたことで夫と離婚した。
その後にXは結婚を餌に金を要求し、女性は別れた夫から親から様々な名目[6]で金を無心、計1880万円の金がXに流れた。やがて夫や親からの送金が途絶えるようになり、1994年3月31日に女性(当時32歳)は大分県の別府湾に飛び込み自殺した。
その5ヶ月前の1993年10月29日に女性の次女(当時1歳)は頭部強打という形で急性硬膜下血腫で死亡。その際に、指名手配中のYが当時存命中だった次女の母親を騙って搬送された病院に付き添った際には「椅子から転がり落ちて頭を打った」と説明している。
2002年にXらが逮捕されて以降、この事件についてXらの犯罪が疑われた。逮捕後にYは「女児死亡については現場にいなかったので知らない」「女性は死亡する日までXから殴打や通電といった虐待を受けていた。死亡した日はXとともに別府市のホテルに行き、ホテルのフロントで女性に抱かせていた自分の長男を渡された後、女性が海に向かって走り出して投身自殺をした。その後、救急車のサイレンが聞こえたので北九州に逃げた」と供述している。
この母子の死亡は「限りなく他殺に近い」と表現されたが、刑事事件とはならなかった。
女性監禁事件
Aの友人の元妻である女性(当時36歳)にXは死亡前のBを介して知り合い、言葉巧みに近づいて結婚を約束。この女性には3人の子供がいたが、長男は前夫に親権を渡し、長女は受験勉強の塾通いのために実家に預け、次女(当時3歳)を連れてこさせて、XやYと同居を始めた。Xによって女性は職場を退職させられた。
1996年12月30日から翌1997年3月16日にかけ、XとYは女性と次女を北九州市のアパート2階の四畳半和室に閉じこめ、連日虐待した。またXの命令で女性が次女に虐待していた。
3月16日未明、女性は隙を見て部屋の窓から路上に飛び降り脱出した。
女性の逃亡後、Xらは次女を女性の前夫宅の玄関前に置き去りにし、同居していたアパートをすぐに引き払って姿を晦ました。
女性はその後、精神科に長期入院した。2002年に事件発覚した頃、この女性はPTSDを患って摂食障害に苦しみ、生活保護を受け生活していたことが判明している。
Y逃亡未遂事件
- 湯布院事件
- B殺害後に金主をなかなか獲得できないXは「今までは俺が金の工面をしてきたから、今度はお前が金を工面する番だ!」と命じた。YはXの指示で母Dや妹Eに電話で金の無心をしていた。DはYが様々な名目で金を無心したが、Dが了承した時のみ金を渡していた。EはYからサラ金の借金を頼まれたが、「今までさんざん迷惑をかけておいて、今更何なのよ」と言われて拒絶される。
- Xが長男と共に別のマンションに行った際に、Yは初めてDをマンションに招きいれて、面と向かって金を求めたが、拒絶される。Yは自分で働いて金を稼ぐことを決意し、Xにも言わないまま、次男を母Dの実家に「母Dが迎えに来ることになってる」と嘘をついて預け、1997年4月に大分県湯布院町でスナックホステスとして働くが、これによりYがXの元に帰って来なくなった。
- XはYが逃亡したことを知ると、肉体関係があったDとのやり取りにより、Yが湯布院へ行ったことを知る。Yは自分の子供の様子を聞くために度々実家に電話をしていた。
- XはYがBを殺したことを口実に、身内に殺人犯がいることを露見すると世間体が悪くなることを盾にC・D・EをXが住むマンションに巧みに呼び寄せた。また、XはYを自分の下に置くために、Yとたびたび逢っていたC一家3人など通じてX自身の自殺・葬儀を捏造することでYを呼び戻す。
- 偽葬儀で打ちひしがれているYの前にXが現れ、YはXの指示によって自分の家族によって抑えられた。Yにはこの直後の記憶が無くなっている。こうしてYは再びXの支配下におかれ、Xは今まで以上の虐待をYに行った。
- そして、Xは自分の目の前でYに大分県湯布院町の勤め先の雇い主に「給料が安すぎるッ! もっとよこせッ! これから取りに行く」、雇い主の娘が看護師として勤務する病院に「あの娘は薬を横流ししている!」とそれぞれ罵詈雑言と作り話を浴びせる電話をかけさせ、関係を絶たせた。
- Aは1997年3月から浴室に監禁されていたが、Yが湯布院に逃亡すると、3週間ぶりに解放されて中学校に通えるようになったが、その代わりにXの子供の世話役などYの代役を担わされることになった。
- 門司駅事件
- 1997年5月中旬にXが下関市在住と偽って交際していた女性へ下関市の消印の手紙を出すために、少女Aを監視役にYは下関市に向かった。この時のYの服装はXから借りた男物のカッターシャツとジャージ、男物のスリッパであった。
- 帰りの列車で門司駅に着いた際にYはXとAに迷惑をかけないために自殺することを考えて富士山の青木ヶ原樹海に行こうと考え、発車を告げるベルが鳴ってドアが閉まろうとした瞬間に、ホームに飛び降りて走った。しかし、監視役のAも素早く反応して列車から降りてYを追いかけた。Yは改札口を出て駅前に停車していたタクシーに乗り込んだが、AがYに乗り込んだタクシーに追いつき窓を叩き大声で叫び声を上げたため、Aの周りに人が群がり「警察を呼べ」という声が聞こえたために、Yは逃亡を断念した。
- Aは携帯電話でXに連絡を取り、Yの逃走未遂を告げて指示を仰ぐと、Xから門司駅のホームで待つよう指示される。Yは再び走り出して発車直前の列車に乗り込んだ。しかし、またもAがYが乗り込んだ列車に乗り込み、携帯電話でXに連絡。電車が小倉駅に到着した際にホームにXが待っていたため、Yは逃亡を観念した。
- マンションに戻らされたYに対し、Xから今まで以上の虐待が行われた。
Y一家監禁事件
- Yの問題でC・D・Eの呼び寄せ
- 1997年4月にXは湯布院事件で一家C・D・Eをマンションに呼び寄せたのをキッカケに、久留米に住むC・D・Eを夜頻繁に小倉まで呼び寄せるようになる。Xは当初はYとの関係について離縁を含めた話し合いをC一家と行い、高額の手切れ金をC・Dに飲ませて離縁話がまとまる直前にYとの子供2人はXが引き取るという条件を持ち出し、子供好きのYに離縁する気を無くさせ、離縁話が無くなった代わりとして殺人者であるYを匿う費用を要求した。世間体を気にするC一家はこの要求に従った。その後、XはC一家に対してYの問題で様々な名目[7]で金を要求するようになる。Yは「両親(C・D)と妹EはXから自分絡みのことで大金を要求されて金をつくるよう指示され、小倉ではいつもお金をつくる話をしていた」と供述している。
- また、C・D・Eは昼間は仕事をして夜に久留米から小倉まで通って朝に久留米に戻るという生活で睡眠時間が少なくなっていた。Dは睡眠不足から小倉に通う途中で自動車事故を起こしてムチウチ状態となったが、それでも小倉に通い続けた。夜にはXから酒を飲まされながらYの問題を話し合う過程で家族同士の愚痴を聞き出し、弱みを握る。
- Cらが金が用意できなくなると、XはC一家に対して通電などの虐待を行うようになり、無理矢理でも金を用意させるように追い詰めさせて金を巻き上げた。
- さらにCにB殺害現場の配管を交換させ、証拠隠滅に加担させた負い目を負わせた。豊田正義によると農協系土地改良区副理事としてさらに上のポストを目指していたCが世間体を気にして娘が殺人犯であることが世間に発覚することをおそれ、XにB殺害現場の配管交換をするよう言いくるめられたと推理している。
- XとEの男女関係
- Xの証言によると、1997年4月からXとEは肉体関係を結んだ。XはEとの関係についてこれが初めてではなく、高校3年生時に花火大会でE(当時14歳)をひっかけてホテルで肉体関係を持っていた。なお、Yと交際を始めたばかりの頃は、高3時に肉体関係を結んだ相手がYの妹であることを知らなかった。Xの証言によると、1997年時はEが積極的に誘ってきたと主張している。
- 1998年当時のXはYに対しては「俺はEから誘われたけど断り、関係を持たなかった」とEとの男女関係を否定していた。だが、YはXが話を誤魔化すとき自分からせきを切って話し始める癖を知っており、当時から妹EがXと肉体関係があったと判断していた。
- またD死亡後に関するYの証言によると、Xは家族を別々のマンションに分けて住まわせた際にEと自分を一緒にしたことについて「当時、妹Eは買い物役をさせられていたが、それ以外は推測ですので、申し上げなくてもいいと思う」と言葉を濁した。EとFを別々のマンションに分けて住まわせたことについて「Eは虐待以外の時はGと一緒に浴室に閉じ込め、XがEをFから引き離して寵愛したわけではない」としている。
- また妹Eの死亡前の時期に、義弟Fと不仲になる頃に妹Eの生理が止まった[8]。それについてXが「急に痩せたりする体調変化で生理が止まったんだろう」と自分を納得させるかのように話し出していたことから、当時はわからなかったが、逮捕後に法廷に立った時点ではEはXの子を妊娠していたと推測するようになった。またYは、Eの妊娠発覚は、自分や義弟Fの反感を買ってXによる一家支配の困難化になるとし、XがEの生理が止まっている中で陰部への通電を行ったのは自分の子を流産させるため、XのE殺害は妊娠発覚を防ぐため、とそれぞれ推測している。
- Xの証言によると、「Fから自分とEの男女関係を問い質されたことはない」とEの関係について明白な問答をFとしなかったことを示唆した上で、「Fは自分とEの男女関係を察知していたと思う」と推測している。
- Y義弟Fの取り込み&姪G・甥Hの人質化
- 妻Eとのその両親C・Dが毎晩のように外出して明け方に帰ってくるのを不審に思っていたFは、Eと共に小倉のマンションに向かう。
- XはFがYと血の繋がりがないことや元警察官という経歴から、YやCに対しては「Fは信用できない」と警戒していた。しかし、Xは実際にFに会った際に他の家族とは別格に扱い、婿養子で立場の弱いFをことさら持ち上げた。
- Xは酒の席でC・D・Eから様々な秘密を聞き出し、それをFに聞かせた。
- XはEが過去に妊娠中絶をし結婚後も職場で不倫していたことなど酒の席で聞き出しており、それをFに話したところFは相当ショックを受けた。Eの妊娠中絶や職場の不倫はXが聞き出すまでは「Eと深いことも相談しあう仲だった親友1人」しか知らないことだった。
- さらにXはCがFの婿養子入りする際の土地名義変更が未だに不履行であることを挙げて、FがC一家に不信感を募らせるように仕向けた。Xからプライドを擽られたFはXを「よき理解者」として気を許すようになり、「義母Dは食事のおかずを作り過ぎ・手伝えとばかりにレタスを広げる」とC一家に不満をぶつけた。さらにXは「C一家は殴られて当然」とFをそそのかして義父C・義母D・妻Eを殴らせたが、Xが「強くしないんですか?」と言うと、Fはさらに3人を強く殴った。これによりC・D・Eの3人がFに憎悪するよう仕向けた。
- 一方で、Eから「Fが自宅寝室にダブルベッドを置いて部屋のスペースを狭くした」「早朝にFからセックスを求められた」とする愚痴が出ると、XはEの立場になって「女性を侮蔑している!」とFを責め立てた[9]。
- これらによってEとFは夫婦仲が悪化し、Xが仲裁して「離婚に関する協議内容合意覚書念書」を作成した。
- FはXから聞かされた妻Eの妊娠中絶や不倫の話についてEを小倉のビジネスホテルで問いただして、Eが認めると逆上して首を絞める等の暴行をしたとして、Xによって事実確認書が作成された。さらに義父Cが農協から借入する際、借用書に連帯保証人として関与した8月に「いつまで妻の家の奴隷でいるのですか」とFにそそのかしてFは住民票と妻と子供2人と共に自分の実家に移していたが借用書では元の住所を記載したため借用書の文書偽造罪として追求。さらにXはFにB殺害現場の浴室タイルを張り替えさせ、殺人事件の証拠隠滅罪として追求した。Xは前述のFの行為を犯罪行為として度々蒸し返し、「元警察官たるものがッ!」という枕詞にFを罵倒して罪悪感を負わせて心理的に追い詰めた。これによりFがC一家を率いてXに抵抗する事態はありえなくなった。
- さらに、Fは「子供たちを残して北九州に来るのは心配で中々こられない」とXに漏らしたのをきっかけに、XはEとFの子供である娘Gと息子Hを連れてくるよう説得し、8月の小倉の夏祭りをきっかけにGとHは小倉のXのマンションに呼び寄せられたが、それ以降GとHを帰さず人質化した。
- Y一家6人を支配下
- Yの問題を名目にC一家の奇妙な北九州通いは続き、その過程でYやAに通電という虐待行為を行っていることを知り、約束不履行などを名目にC一家にも通電されるようになる。8月になるとC・E・Fは勤務先を頻繁に欠勤するようになった。
- F一家4人には住民票登録上の転居が3回あり、9月中旬に熊本県玉名市のマンションに転居したが、玉名市での居住実態はなかった。保育園児であるHは保育園を8月末で退園し、小学生のGは転校先の小学校に殆ど通わなくなり、Fは9月19日を最後に事務所に出社しなくなった。
- CはYの問題で重度のストレス障害となって8月中旬に入院するも、9月下旬にはXによって強引に退院させられた。
- 金が足りなくなるとCは農協からお金を借りたり、Dが消費者金融から金を借りたり、EやFを退職させて退職金を作るなどして、XはY一家に金を貢がせた。EとFの退職は有給休暇を使い切った後の10月31日付の退職届が勤務先のポストに投函され、Eは職場や上司の自宅まで電話して、退職金早期支払いを求めた。
- また、Cの親類は指名手配中のXとYを逮捕するためにCの家周辺に張り込むようになった。1997年11月中旬に久留米の家に戻ったDが警察官に指名手配中のXとYの居場所を聞かれるも、Dは警察官に居場所を知らないと述べたが、警察官から離れた直後に携帯電話でXに家に警察が張り込んでいることを知らせている。
- C一家はCの父名義の土地の売却を画策するも、C一家4人の行動を不審に思った親類が売却できないように資産保全を図る仮登記で対応。Cは親類に仮登記解除を求めるも拒否された。C一家4人はXの指示で親類に対して仮登記解除を求める手紙を送りつけた。12月19日にCとDは土地の名義人であるCの父に会って仮登記解除について話し合うも、Cの父は拒否した。
- C一家に警察が張り込んでいることとCの父が仮登記解除に応じないことを知ったXは、C一家に金を貢がせる術が無くなったとして最終的に監禁状態にした。11月下旬にCは勤務先の職場で同僚に喫煙を理由に外に出て、Dは歯科医院に虫歯治療の予約をキャンセルしたのを最後にC一家の行方はわからなくなった。地元ではC一家が失踪したと噂が立った。
- XはC一家に対して虐待によって自分たちの言うことを聞かせ、個々の弱みにつけこんで争わせたり、EがXの手先になって密かに盗聴器を仕掛けたことを明かしたりするなどして、C一家を相互不信に陥らせた。マンションの狭い一室、通電を含めた様々な虐待により、当時同じようにXの支配下におかれていたAと同様に、XはC一家への支配を確立していった。C一家がXに貢いだ金は少なくとも約6300万円に上る。親族から金を調達できなくなったCは「もうこうなったら、Xにぶら下がって生きていくしかありません」と宣言するまで思考停止状態になっていた。
一家六人殺害事件
- 父C死亡事件
- 1997年12月21日、Xは土地の売却が阻止された責任にY一家の家長であるCに責任であるとして、Yを通じてCを通電させた。
- その結果、Cは死亡した(第2の殺人。ただし、裁判では傷害致死と認定)。
- Gがかつて願い事を聞いてくれなったCについて「おじいちゃんなんか死んじゃえ」と言っていたが、Xがそのことを持ち出して「GがCの死を望んだから死んだんだ」と主張してGに罪悪感を植えつけた。
- 死体解体中にクリスマスやXの長男誕生日の記念撮影が行われた。
- 母D殺害事件
- 1998年1月20日、度重なる通電によって奇声を発するようになったYの母親Dの処遇について、XはYとその妹E及びEの夫Fに対応策を練らせた。Dの処遇についてYらが精神病院入院や別の住居に引っ越すなど殺人以外の方法を提案したがをXはことごとく却下し、Yらが殺害を提案すると「一家の決断であること」を強調した。Fが「Dがよくなるかもしれないので、もう少し様子を見るべき」と主張したことに対し、Xは「今は暴れていないが、殺す段階で暴れるようになったら、殺害が困難になる」とまくし立てた。さらにXは「どうやって殺すんだ」とYらに考える余裕を与えさせないまま、殺害を既定方針として進める。Yらは部屋にあった電気コードをXの許可を得て借りたが、Yが解体道具購入を優先することを提案した際にはXは「買いに行っている間に声が外に漏れたらどうする?」と殺害を優先するように暗に要求した。
- YとEに体を押えつけさせた上でFに絞殺させた(第3の殺人)。
- 妹E殺害事件
- 1998年2月10日、別のマンションに移動した後、Xの指示の解釈をめぐって娘のGと口論になったE(度重なる通電によって耳が遠くなっていた)に対して、XはEのことを「おかしくなった」などと因縁をつけはじめ、Yに「Dみたいになったらどうするんだ」とEの死を連想する言葉を口にした。そして、XはYに対して「今から向こうのマンション(殺害が行われた場所)に行く。どういう意味がわかるな?」とEの殺害を示唆した。Xは殺害現場のマンションに移動した後で「俺は今から寝る。今から一家で結論を出しておけ」「俺が起きるまでに終わっておけ」とYらに指示した。この言葉をXからの殺害の命令と受け取っていたYとFとGは3人の話し合いの中で「Eの殺害を拒否したいが、Xの曖昧な提案の詳細を聞こうとすると通電される」「たとえ、殺害を拒否しても、Eはもっと酷い虐待を受けて辛い思いをした末に殺されるのではないか?」と悩んでいた。話し合いの結果Yら3人はXに話の中身を聞きに行くことになったが、Xの部屋に向かうドアが開かなかった。Yは「Eの処遇について終わっていないと自分たちも酷い目にあうし、Eは生きていてもXから虐待を受けて辛いだけ」とFに切り出すと、Fが「それなら自分がやる[10]」とFがEの殺害を決意。Fは娘Gに対して、「お父さんが首を絞めるから、おまえは足を押さえて最後の別れのあいさつをしなさい」と問いかける。Eがいる浴室にFとEが入り、FがEの頸にコードをかけようとした瞬間、Fを凝視して「F、私、死ぬと?」と呟くEに、Fが「E、すまんな」と答え、Gに足を押えつけさせた上でFに絞殺させた(第4の殺人)。
- E殺害直後、Fはすすり泣いて「とうとう、自分の嫁さんまで殺してしまった」と呟いた。
- 義弟F殺害事件
- FがXによる度重なる通電と食事制限で度々嘔吐や下痢をしていた。一時的に症状がおさまると大分県中津市にXの愛人に会うために車の送迎をすることになる。Xが愛人と会っている間、Fは監視役のYと共にレストランに行き、間をもたせるために量の多いセットものを注文して食べるようにXから指示され、丼と小さいうどんのセットとメンチカツを食べる。
- 小倉に帰ると浴室に閉じ込めたFの嘔吐がひどくなったので、Xが当初は胃腸薬を飲ませていたが、症状はおさまらず、上半身を起こすことができなくなり、吐いてもすぐに吐き気を催し、吐くものがないのにむせている状態が続く。
- 1998年4月13日、FはXから与えられた眠気防止ドリンクと500ml缶ビールを全部飲みほした(YはFが飲んだ現場を直接目撃していないが、カラになったビール缶を降って浴室から戻ってきたXを見ている)。ビールを飲ませて1時間後、Fは浴室で衰弱死した(第5の殺人)。この際に、娘のGがXに対してFの死亡報告をしている。
- Yは日々悪化するFについて「死亡2日前には病院に連れていかないと死んでしまうと思ったが、母Dの時に病院に入院させる提案がXに拒否されたので、Fを病院に連れて行こうと考えなかった」と回想しており、殺意について未必の故意を認めていた。また、Xは「死ぬと思ったから、最後にビールを飲ませてやった」「(浴室から物音が全く聞こえなくなった状況について)もう死んでるんやないか」とAに言っており、XもFが死ぬことを認識していた。
- 裁判ではFの死因は「高度の飢餓状態に基づく胃腸管障害による腹膜炎であった」と考えるのが妥当とされた。
- 甥H殺害事件
- Fの死亡によって、大人はXとYの2人だけになり、他はXの子供2人とAとGとHと子供しか残らなかった。Xの子供2人と世話役のAは優遇されたが、GとHは悲惨な境遇に追い込まれることになる。
- Fの死から1ヶ月後、Xは「Hは罪になるようなことはしていない」「子供に情けをかけて殺さなかったばかりに、逆に大きくなって復讐されたという話もある」「そうならないためには早めに口封じをしなければならない」と言い、Yは生きていても虐待させられるだけと考えたため「そうするしかないですね」と同意した。
- 1998年5月17日にGはXに対して、「このことは誰にも言いません。弟Hにも言わせません」として自宅への帰宅を願い出たが、Xは「死体をバラバラにしているから、警察に捕まっちゃうよね。Hが何も喋らなければいいけど、そうはいかないんじゃないかな」「俺やG自身に不利益が生じるが、責任が持てるの?」と尋問し続ける。そして、Xが「Hは可哀相だから、お母さん(E)のところへ行かせてやる?」と暗にHを殺すことを命じ、Gは「そうします」と答えた。Yは「自分ひとりでHを絞める」と言ったが、Xは「YとG二人でやれ」と指示を出し、今までC一家の死亡に一切加担していなかったAにも参加するよう促した。GはHを台所の床に仰向けに寝かせるように指示し、Hに「お母さん(E)のところに連れて行ってあげる」と嘘をついて、Aが足を押さえた上でGとYが二人がかりでHを絞殺した(第6の殺人)。
- Aの証言では大筋ではYの証言と一致しているが、Aは「殺害場所が台所ではなく浴室」「殺害においてYはGと2人で絞殺したのではなく、Gが1人で絞殺してYは手首を押さえていただけ」と証言している点がYの証言と異なる。裁判ではYの証言が採用された。
- 姪G殺害事件
- XはGに通電を繰り返して衰弱させ、「太っていたら大変だろ?」という理由でGの食事の量を減らした際に、Yは「太っていたら解体に困るので、XはGの殺害を考えている」と考えた。またGだけがいない場面でXはAに向かって「アイツは口を割りそうだから処分しなきゃいけない」「アイツは死ぬから食べさせなくていい」とGの殺害に関する発言をした。YはH殺害事件直後に解体道具を多めに買うようXが指示を出したことがGの死体解体準備と認識した。
- 1998年6月7日にXは浴室でGと2人きりで何度も話し合った後で「Gは死にたいと言っている」としてGが頷き、YとAがGを絞殺した。その際、Gは静かに横たわり、首を絞め易いように首を持ち上げたという(第7の殺人)。
- Aの証言では大筋ではYの証言と一致しているが、Aは「XがGに通電し続け、全く動かなくなったGにYと共に首を絞めた」と証言し、一部がYの証言と異なる。裁判ではYの証言が採用された。
上記の事件について、XがYとその一族に遺体の解体を命じた。
F夫婦一家は熊本県玉名市内の賃貸アパートの家賃が1998年3月に振り込まれて以降、連絡が途絶えたためことに不審に思った管理人が合鍵で室内に入りランドセルや携帯電話が確認された。
C一家6人の失踪後、北九州市小倉北区内の駐車場でC名義の乗用車が見つかった。駐車場の管理人から連絡を受けたCの親族が車を引き取った(この車は2002年に事件発覚した際には警察に任意提出された)。
女性詐欺事件
Yの証言によると、C一家6人が死亡した直後にXからYに対し「おまえと子供たちがいるから俺は迷惑なんだ。Aと二人なら、俺はBに成り済まして、ちゃんと生きていけるんだ」と言い、Yの子供2人を殺して自殺するという親子3人の心中を命令されていた。しかし、Yの子供2人はXからYがいかに悪い母親か聞かされていたため、Yは親子3人の心中を実行することができなかったという。
そこで、Xは新しい金主として夫との不仲に悩む専業主婦に焦点を当てる。Xは女性に対して悩みを聞きだし、夫と離婚して自分と一緒になることを求めた。Xは女性に対して「夫の狙いは子供だから子供だけでも私が預かって隠したほうがいい」と女性の2人の子供(双子)を預かる一方で、養育費名目で金を要求した。女性が金を工面できなくなるとXは紹介した風俗店で女性を働かせて、女性から約2500万円を貢がせていた。
女性の2人の子供(双子)とXとYの2人の子供の計4人はYやAによって育てられることになった。その際に、Xの長男は外出先のXから電話を通じてAに暴力をふるうこともあった。
この事件は被害届が出されていないこともあって、刑事事件となっていない。
少女逃亡失敗監禁事件
2002年1月30日に少女AがXの隙をみて、北九州に住む祖父母の家へ逃亡。逃亡に成功したAは半月ほど祖父母と一緒に暮らしをしてアルバイト先を決めたり、国民健康保険に加入したり、預金口座を作るなどして生活の基盤を築き始めていた。しかし、AはXによってBが死亡したことについて罪悪感を持っていたため、Bの死を祖父母には伏せていた。
AはXの命令でお小遣いの名目で金を調達するために祖母とはそれまでも何回か会っていた。その際にXの支配下に置かれていたAは祖母との会話中に、死亡したBに関する質問には「出張中で殆ど逢っていない」としか言わず、現在の住所の質問には「一々聞くと、もう逢わんよ!」と血相を変えて怒ることで質問を封じていた。Aは祖母と会話が終わった直後に隠れて公衆電話や携帯電話でXと連絡を取っており、その様子を目撃していた祖母から不審に思われていた。
Aは生活の基盤を築き始めていたが、2月14日にXの交際相手であるAの伯母(Bの姉でもある)からXに行方が発覚する。Xは「Aが金を盗んだりシンナーなどの非行をしており、このままだとBに叱られる」などの嘘話を展開してAの祖父母と伯母を信じ込ませ、Aを強引に連れ戻した。Aは連れ戻される直前に祖父母に「おじさんの話は全部嘘。迎えにきて」と走り書きのメモを渡す。
その後、AはXとYから首を絞められたり通電されたり、命令で自分の血で「もう二度と逃げたりしません」旨の血判状を書かされたり、5分以内にAの右足の親指の爪をラジオペンチを使ってA自身に剥がさせるなどの虐待を受けた。
発覚
2002年3月6日、少女A(当時17歳)が虐待から逃れて祖父の家に助けを求めてきて虐待事件が発覚した。翌3月7日、XとYはAに対する監禁致傷罪で逮捕された。XとYは、容疑や名前も含めて完全黙秘を続け、身分証は偽造されたものばかりであったため、当初は身元が不明であったが、Yが所持していた高校時の写真集をきっかけに判明した。
当初はXとYの2人によるAへの傷害と監禁事件と思われた。その後、Aの証言により、XとYは、Aの父親Bの知り合いで、5~6年前から4人で暮らすようになったが、暮らし始めて約1年後にBが行方不明になり、その後は3人で暮らしていたことが判明する。
後日、別の場所で、Aが世話をさせられていた4人の子供が発見された。2人についてはDNA鑑定でXとYの子供と判明した。残り2人は双子で、別の女性の家庭の不和につけ込んで預かった子供であった。
数日後、Aが「BはXとYに殺された」と証言したため、殺人事件として捜査される。さらにAは、Yの家族6人が殺害され、遺体は解体されて海などに捨てられたと証言したため、大量殺人事件として捜査されるようになった。
警察は、Aの証言を元に「殺害現場と思われる場所の配管」まで切り出し、DNA鑑定を行ったが、Xが配管や浴室のタイルを交換するなどの証拠隠滅工作をしたことや、7人の遺体がすでに完全に消滅しているために、物的証拠が何もないという状態であった。
Aは4人(B・C・G・H)の死亡状況を見ていたが、他3人(D・E・F)の死亡状況は見ていないため殺害方法も不明であることから、捜査は難航した。しかし、長い間黙秘をしていたYが2002年10月23日に自供したことで、改めて事件の概要が判明した。脅迫や虐待をされる中で被害者たちが作成させられた「事実確認書」等の書類、AとYの供述から解体に使われた鋸やミキサー等の死体処理道具を購入した時期を示す領収書、AとYの供述から証言からB殺害事件に使用されて河川に遺棄された鋸の発見、死体解体時の音や匂いやゴキブリの大量発生を不審に思ったマンション住人の証言など、物的証拠が殆どない中で間接証拠が集められた。
Yは逮捕後の拘置所生活について「食事もできるし、お風呂にも自由に入れるし、トイレにも自由に行かせてもらえるし、読書の時間さえある」と語っており、Xの支配下の生活の過酷さを物語った。
YとAに育てられていた4人の内、被害女性の子供2人は親元に戻された。XとYの子供2人(当時9歳と6歳)は児童福祉施設から小学校に通うようになったが、当時9歳だったXの長男は今までの人生について「あまり面白いことがなかったから、0歳から人生をやり直したい」と感想を残している。
2003年7月に空の骨壺に6人の顔写真を入れてC一家6人の告別式が行われた。またF一家4人の全員の集合写真がなかったため、Fの実家には合成したF一家4人の集合写真が飾られている。
手法
Xがこの事件で用いた手法は以下の通りである。
- 弱み
- Xはまず対象者に言葉巧みに近づいて信用させる一方で、何かしらの弱みを握る。Xは対象者に酒を飲ませて言葉巧みに気分をよくさせて相手側から弱みを吐かせることが多かった。
- そして、Xは相手の弱みに乗じて対象者に自分に金を持ってくることを要求した。Xはこのような対象者を「金主」と呼んでいた。
- Xのターゲットとなった者は「純粋な性格」「警戒心が薄い」「間が抜けている」「世間体を気にしている」「実家がそこそこ裕福である」「子供がいる」といった特徴があるとされている。
- 虐待
- 相手の弱みを握ったXは弱みをちらつかせて被害者に対して様々な暴力・虐待を強いた。
- Xは他人に知られたくない弱みを握った際に、その弱みを金を持ってくるように脅迫した。ただし、「お金を持ってこい」とはあからさまには脅さずに、「これはお金を持ってこいと言っているんだな」と思わせるような遠回しな言い方をして脅していた。また、Xは家族を対象とする時は他人に知られたくない弱みを握った際に家族全員をいきなり脅すことはせず、家族を二分にさせた上で双方に弱みをちらつかせることで、家族同士が無理を重ねてかばったり憎みあうにように仕向けていた。
- 特に電気ショックはXが相手を支配するのに非常に重要なツールだった。
- 原点はXが経営する会社に在籍していた工業高校電気科卒の従業員から得た知識を生かして考案したものであった。当初は軽い痛み程度のお遊びであったが、それを目撃したXが関心を示し、電気ショックを虐待に使用できるようにしていった。
- Xは電気ショックを「通電」と呼び、裸にした電気コードの先にクリップをつけ身体に挟んで瞬間的に電流を流す方法が主に用いられた。激痛が走り目の前は真っ白になり患部は火傷を起こし酷い時には水膨れになる。通電する際の部位には手・腕・足・太股・乳首・口や耳や顎など顔が対象であった。
- それだけではなく、サディズムの象徴である性器に対し、男女関係なく通電することがあった。女性に対する性器の通電は裸で仰向けに膝を曲げて寝かされた状態で通電された。2人の女性が横に並んで同じように裸で仰向けに膝を曲げて寝かされた格好で性器に通電されたこともあった。男性に対する性器の通電は、下半身裸で直立不動にさせてだらんと垂らした性器を2人の女性によって通電されたこともあった。
- 通電を受けた者から「顔面に通電されると、1秒でもものすごい衝撃で激痛が走り、意識が遠のいて目の前が真っ暗になり、このままどうなるかという恐怖感があった(Y)」「顔面への通電で判断力を失い、何も考えられなくなったことがある。生きていくのが嫌になり、生きていたいという意欲が削がれた(Y)」「肉が食い込み、締めつけられ、千切れるような熱感で身体が捩れ、息ができず歯を喰い縛った(元従業員)」「脳天に突き上げられる衝撃で目の前が真っ暗になって倒れて気を失った(元従業員)」「筋肉が引き攣って痛くて火傷をし、一発で気持ちを圧し折られてしまう(Xから通電された男性)」「乳首に通電されるとちぎれるような痛みがあり、心臓がバクッとして胸にドンという電気の衝撃があり、仰向けに倒れたことがあった。眉毛への通電では、目の前に火花が散って真っ白になりそのまま失神した(監禁女性)」、性器の通電を受けた者から「性的な意味で自分という人間を否定されるような屈辱感があり、石にでもなってしまいたかった(Y)」という証言が残っている。。
- Xは通電について、被害者らへの躾が目的の「秩序型通電」とXが腹を立てた時の「激昂型通電」の2種類であったとしている。通電の前には必ず理由が言い渡され、どんな些細な出来事も理由になった。
- Yは「Xは通電を含めた虐待を酒を飲む際の肴にしていたように感じた」と証言している。
- なお、10歳女児Gや1996~1997年監禁事件の3歳女児も通電を含めた虐待の対象となった。5歳男児Hは通電こそ免れていたが、食事制限を含めた虐待は受けていた。
- 文書
- Xは数々の「事実確認書」などの文書を作ったり、作らせたりした。これらの中には「弱み」「虐待」を盾に被害者に作らせたものもあった。
- 主に以下のようなものがあった。
- 被害者が将来において文書の中身を実行するもの
- 相手にXの利益になる無理難題を実行させることを約束させるもので、相手に文書の中身について実行させなければならないと思わせるように仕向けた。
- 被害者が過去の弱みを告白するもの
- 署名したことを理由に被害者の弱みを握ったりX自身の責任を逃れるように仕向けた。文書の中身が真実でなくても真実であるように思い込ませて逃亡を考えさせない材料にしていた。
- Xが将来において文書の中身を実行させると思い込まれるようなもの
- 相手に文書の中身についてXが、さも将来において実行するかのように思わせた。
- また、これら文書の多くに「和やかな雰囲気の内に作成した」という不自然な一文が記入されていたり、文書を読み上げてテープで録音するなどしており、これに基づきXは「全員が納得の上で文書を作成した」と主張した。
- 生活制限ルール
- Xは相手の「弱み」「虐待」「文書」を盾に、「衣服」「移動」「睡眠」「食事」「排泄」「外出」など様々な生活制限ルールを強いた。
- 衣服制限
- 衣服は薄着で防寒にならないものが多かった。例として「真冬に袖を捲ったカッターシャツと裾を捲った長ズボン」「与えられたジャージとスウェット」がある。女性に男物の服を着させることもあった。
- 酷くなると上着が使えなくなり、下着姿だけになった。女性の場合はさらに酷くなると、上半身裸で下半身はパンティーのみ両乳首に小さく切ったガムテープを貼られた姿にさせられた。
- また1着しか与えられず、ごくたまにしか洗濯が許されなかった。
- 移動制限
- 部屋の中を移動するにも、一部において一方向に背を向けながら移動させたり、匍匐前進を義務付けた。
- 睡眠制限
- 布団などまともな寝具は使えず、週刊誌を敷いて新聞紙を被せるだけになった。台所で雑魚寝だが、鼾がうるさいと扉と窓に南京錠がかかった浴室に常時閉じ込められた。昼間に3~4時間の睡眠で昼夜逆転の生活であった。
- 会話制限
- Xの許可が無い会話は禁止された。
- 食事制限
- 食事は1日1回又は2回。床に敷いた新聞紙や広告紙に「蹲踞」の姿勢を取って食べなければならなかった。
- 7 - 15分の時間制限があり、他の被害者が監視役としてタイマーで測った。
- 食事の例として「ラーメンの出前」「コンビニ弁当」「コンビニ白米御飯」「食パン」「菓子パン」「カロリーメイト」「生卵」で、殆どが簡易な食事だった。
- 排泄制限
- トイレに行くときはXの許可が必要。小便は浴室か台所にあるペットボトルにすることが義務付けられた。大便は1日1回で便器に腰掛け禁止。便座の腰掛け等は他の被害者が監視役を担当した。
- 物使用制限
- 基本的に物を使用する際にはXの許可がなければ使用することができなかった。
- 例として「ファンヒーター」「布団乾燥機」「絞殺道具」「死体解体道具」がある。
- 外出制限
- マンションに来ると運転免許証と車のキーが取り上げられた。玄関ドアのチェーンに南京錠で施錠されて自由な外出が禁止された。
- 外出時には携帯電話で頻繁に連絡を入れて、何処で何をしているのか報告しなければならなくなった。Xには大体の地理が頭に入っていて、想定の時間内に所定の場所に到着することを求めた。
- またガソリン代や駐車料金は逐一Xに報告して代金を貰い、借用書を書かされる等して必要最低限のお金しか持てなかった。
- マンションの部屋にも様々な細工をしていた。全ての窓に遮光カーテンがあるだけでなく、玄関ドアのチェーンは殆どドアが開かないくらい短くなっており、玄関のドアスコープや新聞受けも物で遮るなどして、外部から室内を覗けないようになっていた。そしてあらゆる窓やドアに多数の南京錠が取り付けられており、鍵を開けないと出入りができないようになっていた。
- これら生活制限ルールの違反をした被害者は、Xによるさらなる虐待を受けた。これらによって被害者は精神的に追い詰められることになった。その一方で、Xは時々外食をさせたり、マンション内の食事に1品つけることがあり、被害者たちに幸福を感じさせて一層Xに服従するように仕向けた。
- マインドコントロール
- Xは相手の「弱み」「虐待」「文書」を盾に、「食事」「排泄」「睡眠」「外出」など様々な生活制限を強き、自分を頂点とする密室の支配構造を強いて被害者を序列化した。通電される者は下位の人間であり、どんなに些細な理由でもXの意向で被害者は通電された。
- またXは、被害者が別の被害者の悪口や不満を述べれば序列の下位から免れるように仕向け、Xは被害者たちの悪口を聞き出したりXがそれらの悪口や不満を当事者である被害者に吹聴させることによって、被害者たちがお互いを憎しみ合うように仕向けた。Xがいないところで被害者同士が集まっている部屋で盗聴していることを匂わせ、Xがいない場所でもXに逆らう言葉を話し合わせないようにした。また被害者はXの指示で上位の被害者が下位の被害者に対して通電するようになり、逆らえば序列の下位に落とされて通電されるため逆らえず、誰かが下位に下がれば他の者は安堵し、家族を裏切ることも厭わずにXの関心を得ようとしてXに絶対服従するようになった。
- そのため、被害者たちの敵対関係に陥って個々人が孤立してしまい、一致団結してXに逆らうということが無くなった。
- またこれらのマインドコントロールは、後に被害者が親族である他の被害者を攻撃することに抵抗感を無くさせ、Xは自らの手を汚さずに被害者に殺人や死体解体をさせる素地のひとつとなった。
これらXによるヒエラルキー構造は「"ワンマン的リーダーX"と"Xの利益を最優先目的とするXの指示を絶対視して絶対服従する複数の奴隷"」「支配と服従の密室」「人間を完全に受動的存在たらしめるためのX流ドクトリン」「秩序もなにもない密室」「密室の中での絶対的な権力」と表現された。
殺人・死体解体
Xは直接実行をしなかったが、Yらへのマインドコントロールを通じて、以下のことを実行した。
- 殺人
- Xは金を巻き上げられなくなって用済みになると、自分の手を汚さずに支配している人間を誘導して殺害をさせるよう仕向けた。
- Xは全て被害者が直接着手するよう仕向けた。またXは被害者らに問題処理の決断を迫る際に殺害以外の選択肢を悉く却下して、最終的に被害者らに殺人を選択させるように仕向けた。Xは絞殺をする際には首を絞める役割の人間と足を押さえる役割の人間を指定することはあったが、誰かに「○○を殺すしかないと思う」「死亡したお母さんに会いたい」「死にたい」と言質を取らせ、自分が殺人を考えたのではないと主張した。
- 上記の経緯から殺害の実行行為に着手せず明確に「殺す」という言質を出さなかったXを殺人罪で裁くことが出来るのかが裁判で注目された。
- 死体処理
- 遺体は浴室で鋸とミキサーで分解し、鍋で煮込んで解体処理するようにアイディアを出し、被害者に選択させ、死体解体の進捗状況が遅いと虐待で急かすように仕向けた。解体された遺体を海や公衆便所などに投棄した。
- Xはこの死体処理手法について「私のオリジナル。魚屋の本を読んで応用し、佃煮を作る要領」と述べている。
- また水道管や浴室のタイルなどを交換して、証拠を隠滅した。そのため、遺骨や血痕などの殺害の直接証拠が全く無く、捜査機関はAおよびYの証言に依拠せざるを得なかった。
3歳女児まで虐待したり、元幼稚園教諭に児童を殺害・死体処理をさせたり、元警察官に殺害・死体処理をさせたり、10歳女児に家族の殺害・死体処理をさせたり、残った女児も容赦なく殺すのは前代未聞である。第一審判決では、この点について「見逃せないのは、児童が犯行の巻き添えや痛ましい犠牲になっていることである。これらは犯行の残忍で冷酷な側面を如実に示している」と指摘している。
また生存者であるAも死体処理に加担し、また殺害において1人は首を絞めて直接絞殺し、もう1人は足を押さえて殺害行為に加担し、計2人の殺害をしたことになっている(なおAは当時13歳だったため、14歳未満の刑事責任を問うことを禁じた刑法の規定により刑事責任には問われない)。
裁判
一審
裁判でYは少女の父Bと自分の父Cの死亡について傷害致死を主張したが、他の5人の殺害を含めて全面的に刑事責任を認める。一方でXは死亡事件について当初は全面無罪を主張した。このように両被告の方針が分かれた場合は分離公判になることが珍しくないが、Yが「最後までXという男を見届けたい」とXとの併合審理を希望したため撤回された。
Xは「7人の死について事故やYの一家が殺害したものによるもの、Y一家の問題への関与を避けていた自分に責任はない[11]」「自分には殺す動機が無い[12]」「自分はBとC以外の死亡現場には立ち会っていない」「Cの死亡前に子供たちを旅館に移動させたので、子供たちはCの死亡を目撃してない」と主張して、殺人罪と傷害致死罪の無罪を主張した。「自分はYとDとEと肉体関係があったため、Eの夫であるFを含めた各自が嫉妬して三角関係にまきこまれた被害者」とも主張していた。ただXの主張には「Cの会社設立は借金状態から無理」「無職のEにサラ金から借金できない」「Cの死亡を目撃していたAは死亡経緯を詳細に証言できた」等の矛盾が多く、変遷することも珍しくなかった。極悪非道な手口で7人の命を奪った凶悪大量殺人事件にも関わらず、法廷でのXの発言は煮ても焼いても喰えないような言葉ばかりで、漫談を聞いているような錯覚に陥り一気に緊迫感が無くなることが度々あったという。
また、以下の証人の証言が注目された。
- 父Bを殺されて自分も虐待されたAはビデオリンク方式で「私にはXとYが悪魔に見えました」「父の敵はきっと私が取ります。ここまで苦しめられた敵を取る方法はXとY両方ともが死刑になることです」と語気を強めて発言した。
- 1996 - 1997年の監禁事件でPTSDを患って摂食障害に苦しんでいた被害女性はビデオリンク方式において検察の尋問がかつてのXからの通電時の尋問に重ねてしまうストレスのために医師から血圧と脈拍を測定して薬が投与されながら証言するも、開廷から20分で身体が言うことをきかなくなって声が出なくなったために裁判長が打ち切りを決めた直後に「どうかXを極刑にして下さい。望むことはただそれだけです。」と震える声で訴えた。
- 子F・孫G・孫H・嫁Eの4人を殺されたFの母は「(出産時に)お腹を痛めたことがある者として、(出産経験がある)Yに聞きたい。Gから『何も言いませんから、お父さんの実家に帰してください』と言われた時に、どうして同じ年頃の子供を持つ母親として、子供の願いを感じられなかったのですか?」とYに訴えた。法廷証言をする際にFの母が身に着けていた腕時計は、Fが警察官になる前にガソリンスタンドのアルバイトによる初めての給料で母にプレゼントするために買った物であった。
2005年3月2日、検察は論告で「善悪の箍が外れた発案者Xと指示にひたすら従う実行者Yとして、車輪の両輪とも言える関係に成り果てていた」と表現し、「稀代の連続大量殺人事件で両被告の刑事責任は我が国犯罪史上、比肩するものがないほど重大である。金蔓として利用価値がなくなった被害者の口封じに7人も抹殺するという鬼畜の所業をやってのけた両被告には極刑を持って臨むのが相当」と、XとYに死刑を求刑した。XとYの関係について、佐木隆三は「鞭を振るう御者Xと直走る馬Y」と表現している。
2005年9月28日、福岡地方裁判所小倉支部において第一審判決が下された。裁判所は、Xの支配下に置かれてお互いを憎み合っていたYとAの証言がほとんど一致し、Yは自分にとって不利なことも進んで証言していること、一方、無罪を主張するXの証言には矛盾が多く一貫性がないことなどから、XとYがB、C、D、E、F、H、Gの計7人を死に至らしめたと認定した。ただし、Yは主張していたBとCの傷害致死については、Cについては「蘇生させようとした」ことから殺意はみとめられないとして「傷害致死」としたが、Bを含めたそれ以外の死亡を「殺人」と認定した。なおEやFは殺害に関与しているが、XとYが事件にEとFを巻き込んだ経緯から、判決では「何の落ち度もない被害者」とされている。
裁判所は一連の事件を「甚だしい人命無視の態度には戦慄を覚える」「残酷、非道で血も涙も感じられない」「悪質さが突出し、犯罪史上稀に見る凶悪事件」と厳しく非難し、Xを「一連の事件の首謀者であり最大の非難に値する」「真摯な反省や謝罪が無く、犯罪性向は強固で根深く矯正の見通しは立たない」、Yを「被害者に対して常に高圧的な態度で臨むなど、主体的で積極的に加担した」として、XとY両方に死刑の判決を下した。
上訴審
Xは即刻控訴。Yは当初は死刑判決を受け入れるつもりでいたが、暴力の影響や支配構造等の事件の核心を審理する事を理由に控訴を決めていた弁護団の説得に同意。
二審でYの弁護団はYの心理鑑定、Xに撮影されたYの裸写真の法廷提出、法廷における「DV」という言葉の多用、性暴力被害の専門家の法廷証言、性暴力被害者団体による減刑を求める署名など、一審にない手法を用いて性暴力を含めたドメスティック・バイオレンスの観点から事件当時はYの判断力が著しく低下していたとして減刑を求めた。
2007年9月26日に福岡高等裁判所で判決が下された。Xの死刑判決が維持された。一方でYについては「Fが元警察官でありながら解体作業や殺害などに加担したことから、Xによる通電などの虐待が被害者の人格に影響を与えていたことを考慮し、Xに暴力支配を受けており従属的だった」と指摘し、捜査段階での自白や公判での反省の態度も考慮されて無期懲役に減刑された。Xはこの判決に激怒し、即座に上告して無罪を主張。Yについては「量刑不当」として検察側が上告した。
2011年12月、最高裁判所はXの上告及びYに対する検察の上告双方を棄却し、Xの死刑とYの無期懲役が確定した。Yに対しては「死刑の選択も十分考えなければならないが、異常な虐待を長期間繰り返し加えられ、指示に従わないことが難しい心理状態の下でXに追従して犯行に加担した点や、捜査段階での自白が真相解明につながった点も、極刑に処するほかないとは断定しがたい」とした。また、横田尤孝最高裁判事はYについて「抵抗する力も言葉も持たない5歳の甥と10歳の姪の殺害を実行した。諸事情を全て被告に有利に考えても、他に例を見ない凶悪重大性に鑑みれば極刑で臨むほかない」と死刑寄りの反対意見を出した。
民事訴訟
福岡県警は2002年にB殺害事件が発覚した際に「Aは遅くとも中学校に入学した1997年4月以降は、周囲に相談したり通報したりすることができた」が1999年4月で申請期限が過ぎたとして犯罪被害者給付金は支給できないと判断して、女性や親族に給付金制度の存在を知らせていなかった。2006年2月に犯罪被害者給付金制度の存在を知ったAは福岡県公安委員会に対し、B殺害事件について犯罪被害者等給付金支給法に基づき給付金を申請した。福岡県公安委員会は、申請時点でBが殺害されてから10年が経過しているとして、2007年3月に申請を却下し不支給と裁定。不支給裁定に対し、Aは「申請に必要な死亡診断書や死体検案書などが存在しないこと、実質的に監禁されていて申請できなかったこと」などの理由を挙げて、福岡地方裁判所に支給を求め訴えを起こした。
2010年7月8日に同地裁は、「Aには期限内に申請ができない特別な事情があったのに、機械的に申請期限を当てはめるのは、被害者救済を目的とする制度の趣旨や正義の観念に著しく反する」とし、殺人が認定された刑事訴訟一審判決の2005年9月を申請期限の起点と認定して福岡県公安委員会の裁定を取り消す判決を言い渡した[13]。2011年9月に最高裁で不支給取り消しが確定し、福岡県公安委員会はAに給付金を支給した。
死亡者の行動心理
この事件の死亡者は他者から見て不可解な行動(「詐欺の指名手配で逃亡しているXやYの居場所等を警察に伝えて、逮捕させることはできなかったのか」「Xから酷い虐待されているのに、何故、逃げずにXの言いなりになったのか?」「Xから握られた弱みは、Xから酷い虐待を受けながら殺されるほど深刻なことだったのか?」「夫がいる身にも関わらず娘、又は姉の交際相手と肉体関係を持ったのは何故か?」等)がいくつかあるが、死亡者の場合は「死人に口なし」として行動心理を本人から聞き出せず不明なままとなっている。
死亡者の親族であり生存者であるYは『(Xとの出会いをきっかけとする一連の事件など「Xとの20年間」について)今思うと全てが異常でした。今の私にはあの時の当時の自分が信じられません。どうしてあんなことができたのだろうと思います。』『自首しなかったのはXが逮捕されて迷惑をかけ、Aの世間の冷たい視線に晒されると思っていたため』『(逃げずにXと行動を共にしていたことについて)逃げる所も行く所もないと考えたが、それ以上深くは考えなかった』『監禁されていたBは娘Aを連れ出す・置き去りに関わらず、監視や施錠によって逃亡するのは不可能だった』と答えている。なおYは、CとDがXの言うことに従っていた理由として、『父C・母DがXの言うことに従わなければ、親戚に危害が及ぶと思っていたから』と語っている。
事件の教訓
男性主犯・女性従犯として女性親族を殺害したことで類似性がある長崎・佐賀連続保険金殺人事件に長崎県警刑事部長として捜査に携わった小賦義一は北九州監禁殺人事件の教訓として以下のことをあげている。
- 犯罪者の企図に気づく目を養うこと
- 性善説を信じないこと
- 主人の留守宅は特に注意すること
- 結婚前に相手の素性を確かめること
- 執拗な暴力には警察に訴えること
- 身内の犯罪者は早く自首させること
- 犯罪人格者とは早く別れさせること
- 不審な出来事は警察に通報すること
事件を題材とした作品
- 新堂冬樹の小説「殺し合う家族」はこの事件をモデルしている。
- 映画「僕は人を殺しました」はこの事件をモデルにしている。
- 闇金ウシジマくんの「洗脳くん」編はこの事件をモデルにしている。
- 真梨幸子の「インタビュー・イン・セル 殺人鬼フジコの真実」に登場する殺人犯は、この事件を参考に事件を起こす。
関連書籍
- 豊田正義「消された一家 ――北九州・連続監禁殺人事件」(新潮社)
- 佐木隆三「なぜ家族は殺し合ったのか」(青春出版社)
- 小賦義一「北九州連続殺人事件の教訓」(文芸社)
- 中尾幸司「絶望裁判」(小学館)
- 新潮45編集部「殺戮者は二度わらう」(新潮文庫)
脚注
- ^ Xによると交際女性とその母親と同時に肉体関係を持つことは日常茶飯事という。また元妻の証言によるとXがスナックを経営する母娘双方に入れ込んでいた事例では、「あなたは母が本気になっている相手だから、私は諦める」旨が書かれた娘からの手紙を元妻に見せている。
- ^ 豊田本では「服部恭子」、中尾本では「沙織」、新潮文庫では「美子」と仮名になっている。
- ^ 佐木本と新潮本では実名で、豊田本「服部清志」では中尾本では「前島」と仮名になっている。
- ^ Yの家族の中で唯一Yと血縁関係がない。FはYより3歳年上である。
- ^ a b c なお、Xが妻と離婚したのは数年後の1992年に相手側の調停によって行われたものであり、また離婚したXがYと結婚してYの家に婿養子入りすることはなかった。
- ^ 夫に対しては次女の養育費名目や実家に再婚費用
- ^ Yの供述では「今までの迷惑料、Yが家に出てからの諸経費、Yの行動に関する補償金、YがDを小倉のマンションに呼んだ時に見つからないようにAを浴室に閉じ込めた際の慰謝料など」があった。
- ^ Eがトイレ使用の際はYが監視役だったが、妹Eの死亡前の時期にEにナプキンを渡したことは一度もなかったという。
- ^ Fのセックス問題について、Yは法廷で「Eは毎晩久留米から小倉に来ているため、朝になるのは仕方ないと思う」とFを擁護している。
- ^ Yはこの言葉を「殺すことに逆らえないのなら、自分の手で殺したほうがEのため」という悲壮な決意と受け止め、胸が詰まったという。
- ^ Xが主張する各死亡原因は、B「風呂掃除中に転倒して頭を打った」C「YがCに通電したため」D「Yが私と男女の仲だった母Dを憎みYの家族を巻き込んだため」E「夫が妻Eの男性関係を憎みYの家族を巻き込んだため」F「肝機能障害を抱えていた中で外食の飲み過ぎ・食べ過ぎ」H「YとGが殺害したと聞いた。YがHの親を殺したためにHからの復讐封じとして」G「YがAが殺害したと聞いた。YはGの口を封じた」
- ^ Xが主張する殺害動機がない理由として、C「高圧ガスやボイラーの取扱免許で会社設立で稼げるので」D「一家支配において自分の右腕として働いていたので・入院給付金等が入った」E「クラブで働かせて金を稼げるので・無借金だからサラ金で借りれるので」H「父Fの実家が可愛がっており生かしていれば金を巻き上げることができるので」G「京都の舞妓さんとして働かせて金を稼ぐつもりだったので」
- ^ 父殺され6年監禁された女性、犯罪給付金支給へ 読売新聞 2010年7月8日
関連項目
- マインドコントロール
- 期待可能性
- 共謀罪
- 尼崎事件 - 類似の事件
外部リンク
- 北九州市の監禁・殺人事件
- 地方裁判所判決 - 平成17年9月28日 福岡地裁小倉支部判決 平成14年(わ)第227号他
- YOMIURI ONLINE 北九州監禁殺人・高裁判決要旨
- 最高裁判所判決(Xについて) - 平成23年12月12日 最高裁第一小法廷判決 平成19年(あ)第2276号
- 最高裁判所判決(Yについて) - 平成23年12月12日 最高裁第一小法廷判決 平成19年(あ)第2276号
- 北九州監禁殺人事件/del20140716のページへのリンク