被害者一家長女のその後
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「練馬一家5人殺害事件」の記事における「被害者一家長女のその後」の解説
長女は事件当時小学校の林間学校に行っており難を逃れたが、学校側は林間学校の最中に事件発生を把握したことで教諭の一部から「事件のことを長女に知らせたほうが良いのではないか?」という声も上がった。しかし結局は「長女にとって初めて野外で集団生活を送る経験なだけに、最後まで楽しい思い出にしてあげたい」として林間学校が終わるまで事件のことを長女のみならずすべての児童たちに知らせなかった。 長女は家族のためにお土産を用意し、1983年6月29日になって東京へ帰ってきたが、その際に親類・学校・警視庁などの配慮により途中で貸し切りバスを下ろされ、迎えの警察車両を経て親類の車で母方の伯父宅へ送られ、親類宅で「家族はみんな交通事故で死んだ」と伝えられた。当時の長女の状況に関して『朝日新聞』は「とっさに事情を呑み込めない様子」、『中日新聞』は「怪訝そうな表情をしていた」と報道している。その一方で長女以外の5年生児童123人はバスで校庭に戻り、教頭から「被害者長女の両親・妹・弟が全員凶悪な男に殺されてしまった。1人遺された長女が早く学校に戻れるように祈ろう」と伝えられ、児童・父母・教諭たちからすすり泣く声などが上がった。 1983年7月1日に被害者賃借人の兄(父方の伯父)が住職を務めていた愛染院で被害者一家5人の葬儀・告別式が営まれたが、長女は同日朝に住職の妻(父方の伯母)から「家族5人は事件前によく電話をかけていた不動産屋の男に殺されてしまった」と真実を伝えられ、驚きとともに大粒の涙を流した。その背景に関して父方の伯父の義兄は『読売新聞』の取材に対し「いったんは本人のショックを和らげようと『交通事故で亡くなった』と伝えたが、家族が殺されてしまったことはいずれ本人も知ることだ。親類の中には『最後まで伝えないほうがいい』という意見もあったが、親兄弟の葬儀は本人の生涯にとって大切なことだから、真相を知らせた上できちんと参列させた。ただし『殺された』という事実だけを伝え、残忍な犯行の内容は伏せた」と説明した。 その後、長女は1983年7月6日までに住職の伯父一家に養女として引き取られ、これまで通っていた大泉学園緑小学校から練馬区立練馬小学校へ転校することとなり、1983年7月11日からは事件発生以来約2週間ぶりに登校を開始した。長女の養父となった伯父・及び母校の大泉学園緑小には葬儀翌日の1983年7月2日から小学生を中心に日本全国から「友達になろうよ」「頑張ってください」「気を落とさず新しい生活を送ってください」など長女への激励の手紙が多数(1983年7月6日時点で100通以上)寄せられた。長女のその後に関して元石神井署巡査部長は2004年に『週刊新潮』の取材に対し「事件後に父方の伯父(父親の実兄)に引き取られたが、ストレスのため中学入学後から頭髪が白くなった。その後は早く自分の家族を持ちたかったためだろうか、高校・専門学校を経て卒業直後に結婚し21歳 - 22歳に子供を出産した」と証言している。 第一審判決の際、当時中学1年生だった長女は養親となった伯父夫婦とともに判決公判を傍聴し、『読売新聞』1985年12月20日東京夕刊で「伯父夫婦に引き取られたころは1人で外出することを極端に怖がり沈み込んでいたが、最近は事件のことを口にすることもなく、ようやく明るさを取り戻した」と報道した。一方で控訴審判決(当時17歳・高校2年生)の際は法廷に姿を見せず、このころには『毎日新聞』1990年1月23日東京夕刊にて「事件のことは話題にしないようにしているという」と報道されている。上告審判決を報道した『毎日新聞』1996年11月15日東京朝刊は「(当時23歳の)長女は既に結婚し1歳5か月になる娘(年齢は当時、1995年6月ごろ誕生)がいる。長女は同日も『最後の法廷だから』と傍聴を望んだが育児に追われていたため来られなかった」と報道している。
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