ティムールの死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/04 14:33 UTC 版)
「ピール・ムハンマド・ジャハーンギール」の記事における「ティムールの死後」の解説
ティムールはピール・ムハンマドの兄ムハンマド・スルタンを帝国の後継者と考えていたが、1403年3月にムハンマド・スルタンが急死する。1404年、中国遠征前にサマルカンドで開かれた大祝宴で、ピール・ムハンマドが新たな後継者として祝宴の参加者に紹介された。 1405年2月18日にティムールがオトラルで没した時、ティムールはピール・ムハンマドを後継者をするように遺言した。この時にピール・ムハンマドはカンダハルに駐屯しており、祖父の死と遺言の内容を知るとサマルカンドに向かった。一方、サマルカンド近辺ではティムールの甥スルタン・フサインとピール・ムハンマドの従兄弟ハリール・スルタンがティムールの後継者の地位を主張しており、フサインを放逐したハリールがサマルカンドの主になっていた。 1405年末にピール・ムハンマドはアフガニスタンからバルフに移動し、シャー・ルフに協力を要請した。1406年2月にピール・ムハンマドはハリールと交戦するが、勝利の直前に指揮下のアミールの数人が逃亡したために敗北し、バルフに退却した。 1407年2月、ピール・ムハンマドは配下であるスルドゥズ部のピール・アリー・ターズによって暗殺された。ピール・アリー・ターズの反乱の理由については、ティムールの時代に解体されたスルドゥズ部の再統一、ミーラーン・シャーとハリールの示唆などが考えられている。 彼の死後に子のカイドゥがバルフに残されたが、カイドゥはシャー・ルフによって救出された。
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