ティムールとバーブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 03:49 UTC 版)
「モンゴルのインド侵攻」の記事における「ティムールとバーブル」の解説
デリーのスルターンは、中国からモンゴルにかけてを支配する元朝と、ペルシアから中東を支配するイルハン朝と、友好関係を築いていた。1338年ごろ、デリー・スルターン朝のムハンマド・ビン・トゥグルクはモロッコの旅行者イブン・バットゥータを、元の恵宗トゴン・テムルへの使者に任じている。彼が持って行った贈答品の中には200人の奴隷も含まれていた。 その頃、チャガタイ・ハン国は分裂状態にあり、野心的なモンゴル・テュルク系の首長ティムールが中央アジアを支配下に置いてしまった。 彼は領土拡大とイスラーム化の両政策を推し進め、モンゴルの部族を帝国の別の地域へと移住させるとともに、軍内ではテュルク系の人々を優遇した。ティムールはまたチャガタイ・ハン国においてイスラームの信仰を強化し、クルアーンに基づいた法をチンギス・カンのシャーマニズム系の法よりも上位に置いた。1398年、彼はインドへと侵入し、財宝を略奪していった。 その後、ティムールの帝国は崩壊し、彼の子孫たちは中央アジアを保つことができず、数多くの勢力に分裂した。チャガタイ・ハン国の末裔とティムール帝国の末裔とが併存して、時に戦いまた時に姻戚関係を結んだ。 そうした婚姻関係の結果生まれた一人が、ムガル帝国の創始者・バーブルである。彼の母はタシュケントのモンゴル系の家系であった。バーブルはティムールの血を引く子孫であり、ティムールと同様、次のことを信じていた:チンギス・カンの支配は不完全なものであった、何故ならその支配には「神の権威がなかった」からである、と。 彼自身の母はモンゴル系であるにもかかわらず、バーブルはあまりモンゴル人を好んでおらず、自叙伝において辛辣な一節を書き残している。 「ムガルが天使の民であれ、それは悪しき民であろう、 金で書いてさえ、ムガルの名は悪しき名であろう」 バーブルがカーブルを占拠しインド亜大陸への侵攻を開始した時、彼はかつての侵略者チャガタイ・ハン国と同様ムガルの名で呼ばれた。ティムールの侵略ですら、モンゴル帝国が中央アジアを長らく支配して以来のモンゴルの侵入と見なされており、彼らにはその名が与えられた。 ティムールとバーブルはどちらもチンギス・カンの軍事制度を引き継いでいた。その制度の一部はオルドゥ(Ordu)―軍の野営地を形成する天幕の集団の意―と呼ばれており、これは現在ウルドゥーと発音されている。 彼らのインド遠征の全てにおいて、ムガルの宿営地はウルドゥーと呼ばれ、この言葉は現在この宿営地を築いた多様な兵士たちの様々な言語となっていった。 やがてこうしたインドの言語と外来の言語はウルドゥーで混ざり合いその名で呼ばれる新たな言語が誕生した。この軍営の言語はいくつかの北インドの都市で、ムガル帝国滅亡後も生き残った。ウルドゥー語はこの地域で政治的変動を乗り越え、ついには詩歌や音楽、その他の形の文化的表現が行える言語となった。今日、ウルドゥー語はインドの多くの公用語の一つとして、また、パキスタンの公用語として認められている。
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