ティムールの大帝国と東西並立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 20:15 UTC 版)
「イランの歴史」の記事における「ティムールの大帝国と東西並立」の解説
詳細は「ティムール朝」、「黒羊朝」、および「白羊朝」を参照 14世紀末にこのようなイラン高原を一気に征服したのがティムール朝である。ティムールはテュルク化したモンゴル出身でチャガタイ・ウルスの内紛に乗じて頭角を現した。マー・ワラー・アンナフルのサマルカンドを中心として、瞬く間にイラン高原からシリア、アナトリアに至る大帝国を築きあげた。しかし1405年、ティムールが大明帝国攻撃の途上に没すると内紛が発生、東方では三男シャー・ルフがヘラートを本拠に権力を確立する一方、帝国西半は次々と自立し、アナトリア東部を本拠とするカラ・コユンルー部族連合による黒羊朝(カラ・コユンルー朝)が成立した。シャー・ルフは黒羊朝に対して数度の遠征を行い、宗主権を獲得するものの完全に併呑することはできなかった。1447年、シャー・ルフが没するとティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分立、互いに抗争を繰り返すようになる。この頃、西方でもバーヤンドル部族連合を中心とする白羊朝(アク・コユンルー朝)が成立、1468年前後に黒羊朝を駆逐した。白羊朝のウズン・ハサンはティムール朝を破ってイラン高原東部まで勢力を伸ばすが、1473年、オスマン帝国のメフメト2世に破れ白羊朝の征服活動は停止する。1480年代、ヤアクーブの治世下では比較的安定していた白羊朝もその死後に内紛・分裂に陥った。 ティムール没後のイラン世界も政治的に安定した時代ではなかったが、サマルカンドやヘラートなどでの建築活動や、あるいは宮廷での文学作品を数多く生み出した時代であった。代表的なものにサマルカンドのウルグ・ベク・マドラサがある。またスーフィー・タリーカの流行も著しかった。ナクシュバンディー教団やニアマトゥッラー教団(英語版)がその代表的なものである。 白羊朝は1508年、新興のサファヴィー朝に滅ぼされた。東方では北方にジョチ・ウルスの余裔であるウズベクのシャイバーニー朝が成立して南下をはじめ、1501年にサマルカンド政権、1507年にヘラート政権が滅んだ。サマルカンド政権の王子バーブルは再興を試みるも失敗し、アフガニスタンに退いたのちやがてインドにムガル朝を開くことになる。こうして東西分立の時代を終え、16世紀、イラン高原はサファヴィー朝による統一的な歴史を歩み始める。
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