サマルカンド政権とヘラート政権
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「ティムール朝」の記事における「サマルカンド政権とヘラート政権」の解説
1451年、シャー・ルフの兄ミーラーン・シャーの孫アブー・サイードが、中央アジアのトゥルクマーンとウズベクの支援を受けてサマルカンドを奪取、シャー・ルフ家の王子に代わって第6代君主に即位した。アブー・サイードはイスラム神秘主義教団のひとつナクシュバンディー教団の支持を獲得してその宗教的権威のもとにマー・ワラー・アンナフルの勢力を固め、1457年にはアゼルバイジャンで反乱が起ったためにヘラートを放棄して東イランに帰還せざるを得なくなった黒羊朝と交渉して、ヘラートを含むホラーサーンを始めとするイラン東部を返還されて、シャー・ルフ没以来の10年ぶりのティムール朝の単独君主となった。 アブー・サイードの治世では、反乱やウズベクの侵入に悩まされつつも統一は保たれた。しかし、1467年にアゼルバイジャン方面でトゥルクマーンの白羊朝が黒羊朝を破って勢力を確立すると、これを東部イラン回復の好機と見たアブー・サイードは西方へと遠征を敢行し、1469年に白羊朝の英主ウズン・ハサンの軍によって大敗を喫し、殺害された。アブー・サイードの死後、その長男スルタン・アフマドがサマルカンドで即位するが、もはやマー・ワラー・アンナフルを確保するのが精一杯で、ホラーサーンではヘラートを本拠地とするティムールの次男ウマル・シャイフの曾孫フサイン・バイカラが勢力を確立していた。こうしてティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権の分立の時代に入る。 サマルカンド政権ではウルグ・ベクの知事時代に繁栄の絶頂を極めていた都市文化が衰退に向かいつつあったが、ナクシュバンディー教団の権威のもとで安定が保たれた。しかし、1494年にアフマドが没すると王子たちと有力な将軍たち、ナクシュバンディー教団の教主たちの間で王位を巡る内訌が勃発し、さらに北方のウズベクの南下・侵入によってサマルカンド政権の支配は急速に崩壊していった。1500年、サマルカンドはシャイバーン朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンによって征服され、サマルカンド政権は滅びる。1503年にはアブー・サイードの孫バーブルがサマルカンドを奪還するが数ヶ月で再びシャイバーニー・ハンに奪取され、中央アジアはシャイバーン朝に制圧されてゆく。 一方、ヘラート政権では40年近くに及んだフサイン・バイカラの治世のもとで安定を実現し、サマルカンド政権や白羊朝との友好関係のもと、首都ヘラートではティムール朝の宮廷文化が絶頂を迎えた。しかし、平和の影でヘラート政権は次第に文弱化しており、1506年にフサインが死んだ後にはまったくその力は失われていた。翌1507年、ヘラート政権は、サマルカンドから南下してきたシャイバーニー・ハンの前にあっけなく降伏し、こうして中央アジアにおけるティムール朝の政権は消滅した。 1511年、バーブルはイランの新興王朝サファヴィー朝の支援を受けて再びサマルカンドを奪還するが、サファヴィー朝の援助を受けるためにシーア派に改宗していたために住民の支持を失い、1512年に再びサマルカンドを失った。バーブルはこれ以降、中央アジアの支配奪還を断念し、南下に転じる。アフガニスタンのカーブルを本拠地としていたバーブルが、デリーのローディー朝を破り、インドにおけるティムール朝としてムガル帝国を打ち立てるのは、その晩年の1526年のことである。
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