シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代とは? わかりやすく解説

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シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 08:32 UTC 版)

ティムール朝」の記事における「シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代」の解説

ティムール生前から、新たに征服した地方自身王子たち知事としその支配委ねていたため、ティムールの死後各地分封されて勢力蓄えていた王子たちの間で後継者を巡る争い起ったティムール自身先立って死んだ王子ジャハーンギールの子ピール・ムハンマド・ジャハーンギール後継者指名していたが、ピール・ムハンマド諸王子の中では力が弱く権力を掌握することができなかった。かわって三男ミーラーン・シャーの子タシュケント知事ハリール・スルタン首都サマルカンド奪いティムール後継者として即位する。しかし、腹心部下をもっていなかったハリールは、寵姫シャーディ・ムルク(英: Shad Mulk)の政治介入許して首都での支持を失うと、ホラーサーン地方知事ホラーサーン駐留軍団統御することに成功したティムールの四男シャー・ルフ倒された。 1409年サマルカンド征服ティムール朝3代君主となったシャー・ルフは、サマルカンド支配自身長男ウルグ・ベク任せてホラーサーン帰りホラーサーン主要都市のひとつヘラート(現アフガニスタン西部)を本拠地としてティムール朝再統一乗り出したシャー・ルフ自身の子飼い部将たちを将軍登用して権力固め王朝発祥の地である中央アジア遊牧民軍事力背景地方割拠する三人の兄の子孫たちから次第権力奪っていった。40年近く続いたシャー・ルフ治世には明との外交樹立され商業活動振興し国際商業オアシス豊かな農業生産支えられ繁栄背景中央アジアではイスラム文化大い発展した1415年1422年1431年頃の3度にわたり明の永楽帝の命を受けた鄭和ホルムズ訪れている。 しかし、西方辺境東アナトリアからイラン西部ではティムール打倒されモンゴル貴族に代わってトゥルクマーン遊牧民活動活発化し、黒羊朝英主カラ・ユースフ(英語版)に率いられた彼らの手によってアゼルバイジャン地方ティムール朝から失われた1447年シャー・ルフ没すると再び諸王子たち各地自立して王位争い始めティムール朝支配は再び揺らぐシャー・ルフ死んだ後、その長男サマルカンド支配していたウルグ・ベク正統後継者として4代君主即位するが、まもなく1449年に自らの長男アブドゥッラティーフの手によって殺害されてしまった。翌年にはアブドゥッラティーフ暗殺されシャー・ルフ家からは実力者がいなくなり混乱が続く。この間黒羊朝急速に勢力広げイラン西部から東部まで進出してホラーサーンの主邑ヘラートまで占領していた。

※この「シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代」の解説は、「ティムール朝」の解説の一部です。
「シャー・ルフとウルグ・ベク父子の時代」を含む「ティムール朝」の記事については、「ティムール朝」の概要を参照ください。

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