ヘンリク3世との協定、ヴロツワフ司教との争い(1252年 - 1261年)
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「ボレスワフ2世ロガトカ」の記事における「ヘンリク3世との協定、ヴロツワフ司教との争い(1252年 - 1261年)」の解説
戦後、ボレスワフ2世は自らの公国における権威を回復するのに2年を要し、敵対者だったヘンリク3世の助力をも必要とした(ヘンリク3世もシロンスクの不安定な政情を危惧し、兄に協力せざるを得なかった)。公爵兄弟の協同関係は復活し、彼らの関係は次第に良好なものになっていった。その後に起きたシロンスク公国内の覇権をめぐる争いにもヘンリク3世は干渉しなかった。この時期、ボレスワフ2世はヴィエルコポルスカ公らポーランド諸公及びヴロツワフ司教トマシュ1世と同盟していたが、ボレスワフ2世は常に弟達ばかりを支持するこの司教を恨んでいた。 ボレスワフ2世とヴロツワフ司教との争いは、1257年にボレスワフ2世が司教を解任してヴレン城に監禁することを決定した際に最も激化した。ボレスワフ2世がこの法令によって公国内の教会を支配しようと考えたかどうかは明らかでないが、この振る舞いはただちに破門を受けることにつながり(ボレスワフ2世は1248年と1249年の2度にわたって破門を受けていたが、いずれも教会の承認によって取り消されていた)、近隣の諸公達が彼に対して十字軍を組織する事態に陥った。ボレスワフ2世の弟達だけが仲裁に入り、両陣営への働きかけを始めた。 仲裁が功を奏し全面戦争は回避されたが、代償は高くついた。ボレスワフ2世は1261年に高額の賠償金を支払わされ、ヴロツワフの大聖堂の門前で公式に懺悔させられたからである。司教の勝利は明らかだった。
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