ヴロツワフ司教との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 08:33 UTC 版)
「ヘンリク4世」の記事における「ヴロツワフ司教との争い」の解説
1282年から1287年にかけて、ヘンリク4世はヴロツワフ司教トマシュ2世ザレンバとの長期にわたる紛争を展開した。争いは早くも1274年から1276年の時期に起きていたが、この時は双方とも言い分を通すことなく調停の受け入れを余儀なくされた。1282年に始まった争いは、レグニツァの戦い直後のシロンスクの混乱期に、教会が占有してしまった土地と財産に関して、教会がヘンリク4世に不輸不入権を侵されたとして告訴したことが契機となった。 1282年、司教は教皇特使フィリッポ・デ・フェルノに陳情書を書き送り、紛争の調停を頼んだ。フェルノの調停は教会に有利なもので、ヘンリク4世はこれを不服として上訴した。翌1283年、ヘンリク4世はヌィサで大規模な司教会議を主宰し、会議の一番の見せ場は馬上槍試合だった。ところが緊張関係はその後も続いており、トマシュ2世は教皇特使の支持を受けてヘンリク4世に反旗を翻し、1284年3月にヘンリク4世とその領国全域を破門した。しかし司教の思いのままになりたくないヘンリク4世は、教皇マルティヌス4世に上訴した。 ローマでの裁定はヘンリク4世に不利なものだったが、ヘンリク4世の支配下にある教会勢力の全てを自分に従わせようとするトマシュ2世の努力も空しく、フランシスコ会などいくつかの修道会はヘンリク4世に忠誠を誓っていた。2人の争いは続き、グニェズノ大司教ヤクプ・シフィンカによる調停も失敗に終わった。1285年、ヘンリク4世は司教から聖職者に対する影響力を奪い取ることに成功し、ヌィサ=オトムフフ公国内の司教領の一部を没収した。屈辱的な状況においこまれたトマシュ2世はラチブシュ公国への亡命を余儀なくされた。 1287年、ヘンリク4世がラチブシュに侵入し、逃げ場を失ったトマシュ2世は観念してヘンリク4世に服従した。しかし勝者となったヘンリク4世は寛大な態度をとった。彼は司教領から奪った豊かな領地を返却し、聖十字のコレギアタ(聖堂参事会の管理する教会)を寄進した。 この争いの一方で、ヘンリク4世はシロンスクの諸公達を自分に臣従させる努力を続けており、彼らの服従はヘンリク4世の王冠獲得の野心を実現させる重要な第1歩だった。1284年、ヘンリク4世はカリシュを奪い取るため、ヴィエルコポルスカの貴族ザレンバ家(トマシュ2世の実家)を裏切った。しかしヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世はカリシュの譲渡を頑として認めず、結局カリシュはオウォボクと交換する形で返還された。
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