ヴロツワフ公との関係とは? わかりやすく解説

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ヴロツワフ公との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/30 09:49 UTC 版)

ボルコ1世スロヴィ」の記事における「ヴロツワフ公との関係」の解説

政治に参加するには若すぎたためと思われるが、ボルコは父が死ぬまで年代記には滅多に登場しない1277年レグニツァ公一族勝利したストレツの戦いに、公子ボルコ参加しただろう。 ボレスワフ2世1278年12月26日亡くなったボルコ1世と弟のベルナルトヤヴォルとルヴヴェクを与えられ、これを共同統治することになった。兄ヘンリク5世レグニツァ保持した1281年ボルコベルナルト領地分割しボルコヤヴォルの、ベルナルトはルヴヴェクを得てそれぞれ単独統治開始した単独統治者とのしてボルコ1世抱えた最初問題は、従弟ヴロツワフヘンリク4世勢力拡大に対して自分の持つ小公国どのように守るかということだった。最終的にボルコ1世頼ったのはブランデンブルク辺境伯達だった。彼らとの同盟関係確固たるものにするため、ボルコ1世ブランデンブルク=ザルツヴェデル辺境伯オットー5世の娘ベアトリクスとの結婚考えようになった婚約1279年4月14日シュパンダウ成立した。しかし新郎新婦親族関係にあったため、結婚1284年まで引き延ばされた(但し教皇認可下りたのは翌1285年であった)。アスカーニエン家とのこの結びつきのため、ボルコ1世ローマ王ルドルフ1世ヘンリク4世との紛争否応なく巻き込まれた。ボルコ1世1280年ヴロツワフに、翌1281年にはプラハ遠征行ったが、これは徒にヘンリク4世からの報復招いただけであった1286年に弟ベルナルト子供残さず死ぬと、1281年頃に結んだ互恵的相続協定則りボルコ1世は弟の遺領ルヴヴェク公国相続した1280年代後半ボルコ1世はさらに強大化していくヘンリク4世脅威かわそう試み、やがてボヘミア王ヴァーツラフ2世接近し始めたボルコ何度プラーク訪問して多く宮廷儀式出席しており、1289年ビトムカジミェシュボヘミア王臣従の礼をとった際の儀式にも居合わせている。しかしボルコ1世自身ボヘミアによる支配には強く抵抗したため、ボヘミアから大した利益を受けることは出来なかった。利益ボヘミア国境要衝ションベルク城を入手できた程度である。 1290年ヘンリク4世思いがけない急死は、シロンスク情勢一変させた。ボルコ1世の兄ヘンリク5世ヴロツワフ占領してヴロツワフ公国全域支配下収めるのに成功したが、ヴロツワフ貴族たちの反発や、法定相続人であるグウォグフ公ヘンリク3世からの公国譲渡要求直面したボルコ1世は兄を支援することを決めたが、相当の代償要求したヘンリク5世からシフィドニツァ、ゾンプコヴィツェ、ジェンビツェ、スチェリンを譲渡された後、ボルコ1世ヴロツワフレグニツァ軍勢食糧送った。しかしヘンリク5世受け取った支援は十分とは言い難かった結局ヘンリク5世ヘンリク3世敗れて籠に入れられた。ボルコ1世ヘンリク5世不在のため兄の公国摂政務めたが、そのあいだ兄を開放するよう敵方働きかけることはなかった。

※この「ヴロツワフ公との関係」の解説は、「ボルコ1世スロヴィ」の解説の一部です。
「ヴロツワフ公との関係」を含む「ボルコ1世スロヴィ」の記事については、「ボルコ1世スロヴィ」の概要を参照ください。

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