ヴロツワフ公との関係
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「ボルコ1世スロヴィ」の記事における「ヴロツワフ公との関係」の解説
政治に参加するには若すぎたためと思われるが、ボルコは父が死ぬまで年代記には滅多に登場しない。1277年にレグニツァ公一族が勝利したストレツの戦いに、公子ボルコも参加しただろう。 ボレスワフ2世は1278年12月26日に亡くなった。ボルコ1世と弟のベルナルトはヤヴォルとルヴヴェクを与えられ、これを共同で統治することになった。兄ヘンリク5世はレグニツァを保持した。1281年にボルコとベルナルトは領地を分割し、ボルコはヤヴォルの、ベルナルトはルヴヴェクを得て、それぞれ単独統治を開始した。 単独統治者とのしてボルコ1世が抱えた最初の問題は、従弟のヴロツワフ公ヘンリク4世の勢力拡大に対して、自分の持つ小公国をどのように守るかということだった。最終的にボルコ1世が頼ったのはブランデンブルク辺境伯達だった。彼らとの同盟関係を確固たるものにするため、ボルコ1世はブランデンブルク=ザルツヴェデル辺境伯オットー5世の娘ベアトリクスとの結婚を考えるようになった。婚約は1279年4月14日、シュパンダウで成立した。しかし新郎新婦は親族関係にあったため、結婚は1284年まで引き延ばされた(但し教皇の認可が下りたのは翌1285年であった)。アスカーニエン家とのこの結びつきのため、ボルコ1世はローマ王ルドルフ1世とヘンリク4世との紛争に否応なく巻き込まれた。ボルコ1世は1280年にヴロツワフに、翌1281年にはプラハに遠征を行ったが、これは徒にヘンリク4世からの報復を招いただけであった。 1286年に弟ベルナルトが子供を残さず死ぬと、1281年頃に結んだ互恵的な相続協定に則り、ボルコ1世は弟の遺領ルヴヴェク公国を相続した。 1280年代後半、ボルコ1世はさらに強大化していくヘンリク4世の脅威をかわそうと試み、やがてボヘミア王ヴァーツラフ2世に接近し始めた。ボルコは何度かプラークを訪問して多くの宮廷儀式に出席しており、1289年、ビトム公カジミェシュがボヘミア王に臣従の礼をとった際の儀式にも居合わせている。しかしボルコ1世自身はボヘミアによる支配には強く抵抗したため、ボヘミアから大した利益を受けることは出来なかった。利益はボヘミア国境の要衝ションベルク城を入手できた程度である。 1290年、ヘンリク4世の思いがけない急死は、シロンスクの情勢を一変させた。ボルコ1世の兄ヘンリク5世はヴロツワフを占領してヴロツワフ公国全域を支配下に収めるのに成功したが、ヴロツワフの貴族たちの反発や、法定相続人であるグウォグフ公ヘンリク3世からの公国譲渡要求に直面した。ボルコ1世は兄を支援することを決めたが、相当の代償を要求した。ヘンリク5世からシフィドニツァ、ゾンプコヴィツェ、ジェンビツェ、スチェリンを譲渡された後、ボルコ1世はヴロツワフとレグニツァに軍勢と食糧を送った。しかしヘンリク5世が受け取った支援は十分とは言い難かった。結局、ヘンリク5世はヘンリク3世に敗れて鉄籠に入れられた。ボルコ1世はヘンリク5世不在のため兄の公国を摂政を務めたが、そのあいだ兄を開放するよう敵方に働きかけることはなかった。
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