ヴロツワフ公と連携とは? わかりやすく解説

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ヴロツワフ公と連携

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/29 22:03 UTC 版)

ヘンリク3世 (グウォグフ公)」の記事における「ヴロツワフ公と連携」の解説

ヘンリク幼少期について知られていることはほとんどなく、1267年曾祖母であるシロンスクのヤドヴィガ列聖式に参列しているのみである。1274年に父が死去した時、ヘンリク3世未成年であったヘンリク3世初め政治の場に参加したのは1277年ヴィエルコポルスカプシェミスウ2世母方従兄と共に父方伯父であるレグニツァ公ボレスワフ2世対す軍事遠征行った時である。この遠征は、ボレスワフ2世が甥でヘンリク3世従兄に当たるヴロツワフヘンリク4世高潔公)から領土的譲歩引き出すために、ローマ王ドイツ王ルドルフ1世同盟してヘンリク4世を捕え、レグニツァ城に幽閉したことが原因起きたのだったヘンリク3世ボヘミア王オタカル2世囚われの身となった幼いヴロツワフ公を救出するため、シロンスク諸公同盟軍組織した。しかし、同盟軍1277年4月24日のストレツの戦いで敗北したレグニツァ軍勢総大将ボレスワフ2世長男ヘンリク5世であった。これが、ヘンリク3世ヘンリク5世因縁対決における最初の衝突となった1年後1278年8月26日ヘンリク3世歴史的決戦であったマルヒフェルトの戦い参加しボヘミア王オタカル2世大敗戦死立ち会うことになった同年ヘンリク3世は弟達に領土分割することを余儀なくされた。ヘンリク3世公国内の主要都市であるグウォグフ、ビトム・オジャンスキ、コジュフフなどを保持し、すぐ下の弟コンラト2世はシチナヴァを、末弟プシェムコはジャガンとノヴォグルト・ボブジャンスキをそれぞれ領有した1281年ヘンリク3世レグニツァ公ヘンリク5世及びヴィエルコポルスカプシェミスウ2世は、ヴロツワフヘンリク4世がソンドヴェルで主催した諸公会議招かれた。ここでヘンリク4世歓待の掟を破り、3人を逮捕したヘンリク4世は3人に対し自分忠誠を誓わせただけで解放した。この時何らかの目論見、あるいは相手からの脅迫があったのか、この出来事から数年間、ヘンリク3世は弟プシェムコと共にヘンリク4世協力関係を持つようになり、ヘンリク4世ヴロツワフ司教トマシュ2世ザレンバとの争いでも、前者加勢している。ヘンリク3世教会との関係修復したのは、ヘンリク4世没した後だった。 ヘンリク3世ヘンリク4世との協力関係1288年1月11日にクロスノ・オジャンスキェにおいて、ヘンリク3世ヘンリク4世の手騎士叙任受けたことにより明白なものとなり、1289年2月26日に弟プシェムコが死んだ時、両者の関係臣従だと最もはっきりと示された。プシェムコの遺領シチナヴァ公国は、ヘンリク3世抗議を全く受けることなくヘンリク4世領土併合されたからである。

※この「ヴロツワフ公と連携」の解説は、「ヘンリク3世 (グウォグフ公)」の解説の一部です。
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