争いの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/14 23:54 UTC 版)
「タルモン=シュル=ジロンド」の記事における「争いの時代」の解説
ユグノー戦争中、ジロンド川周辺は新教改宗者が多かったが、タルモンはカトリック信仰に忠実であった。1563年春、タルモンは武装したカルヴァン派の軍に落とされた。しかし、まもなくしてカトリックの牙城となった。翌年、バスク人傭兵たちがタルモンを襲撃し、コーズへ撤退した。力で屈しなかったタルモンは、策略で落とされた。1574年のカーニバルで、ユグノーの兵士たちが要塞警備の偽装をして侵入し、仲間のために内側からタルモンの扉を開いた。以後2年間、タルモンはユグノー派にとどまり、ボーリューの和平後はカトリックの手から離れることはなかった。 フロンドの乱さなかの1652年、フロンド側の高貴な貴族たちはスペイン軍と同盟し、タルモンを占領、放逐される前に防衛設備のほとんどを破壊した。 新教の許容は、ルイ13世が主導し、その後継者ルイ14世が引き継いだ対抗改革に直面することとなった。1682年、国王がナントの勅令を廃するフォンテーヌブローの勅令を公布、1682年に正式に新教信仰が禁じられた。1682年の勅令は神教の説教を違法としたために、『砂漠の教会』(l'église du désert)と呼ばれる時代の始まりを決定付けた。この時、納屋、時には船の上が『祈りの家』(maisons d'oraison)に変えられた。 17世紀終わり、タルモンはラ・ロシェルのジェネラリテ(Généralité、徴税を行う政府の分局)に属していた。タルモンはマレンヌ選挙区の飛び地であった。1699年に回顧録を執筆する際、ミシェル・ベゴンはシャトレニー・ド・タルモン教区(châtellenie de Talmont)についてふれている。タルモンのまちの外では、小麦、ワイン、干草がつくられていた。 タルモンの要塞は、断続的に続く紛争で傷ついた。城壁の修理は1706年に技師クロード・マッセにゆだねられた。6箇所の『邪悪な砲台』(meschants canons)は海岸からの攻撃からまちを守るために備え付けられた。しかし、資材の不足から事業は終わらなかった。 18世紀から19世紀のタルモンは、主要貿易港であったため比較的豊かであった。ボルドーへ向かう途上の船がタルモンに停泊したからである。最初の碁盤の目状のまちなみは復活せずに中世に建てられた住宅が再建された。
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