争乱の始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:51 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ自治州」の記事における「争乱の始まり」の解説
ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャンへ帰属した後も、アルメニア人たちはソビエト連邦の政局が変化する度、ナゴルノ・カラバフをアルメニアへ編入するようモスクワへ訴え続けた。しかし、ソ連国外においてはナゴルノ・カラバフをめぐる運動はほとんど知られていなかった。だが、1985年にミハイル・ゴルバチョフが連邦共産党書記長に就任し、ペレストロイカなどの自由化政策が開始されると、現地のみならずロシアでも、物理学者のアンドレイ・サハロフなどの著名人がナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を支持するようになった。さらにはソ連国外でもアメリカやフランスを始めとする各国のアルメニア人ディアスポラがナゴルノ・カラバフ編入を支持するデモを行った。 ナゴルノ・カラバフのアルメニア人もこれに勢いを得て、1988年2月20日、ついに自治州ソビエトも公然とナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を訴えるようになった。同日にアルメニアとの合同を求める住民のデモがステパナケルトで発生し、参加者は当時のソ連において空前の数である10万人を超えた。アルメニア本国でも30万人がこれに呼応し、エレヴァンでデモを行ったが、ソ連のメディアはこれを報じなかった。これと時を同じくして、ステパナケルトでアゼルバイジャン人の女学生たちが強姦されたとの噂が流れ、これに起因して22日にアスケラン(ロシア語版)で発生した民族衝突により、2人のアゼルバイジャン人が殺害されるに至った (en)。この事件の影響から、アゼルバイジャン東部のスムガイトでアゼルバイジャン人がアルメニア人を襲撃し、30人以上の死者が発生した(スムガイト事件)。以降、アゼルバイジャンとアルメニアの両国各地で民族衝突が続発するようになり、これはソビエト連邦の崩壊後もナゴルノ・カラバフ戦争として継続してゆく。
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