争奪とハプスブルク家による継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 08:41 UTC 版)
「シュタイアーマルク公国」の記事における「争奪とハプスブルク家による継承」の解説
1246年、フリードリヒ2世がハンガリー王ベーラ4世にライタ川の戦いで敗れ戦死したことで、オーストリア公国のバーベンベルク家は断絶した。当時の神聖ローマ帝国は皇帝フリードリヒ2世治世の末期で著しい混乱と皇帝権衰退の時期にあり、オーストリア・シュタイアーマルクの継承問題は帝国内外の諸国を巻き込んだ大騒動となった。両公国は1254年に一旦ハンガリー王のものとなったが、オーストリア公フリードリヒ2世の姉マルガレーテ・フォン・バーベンベルクの夫だったボヘミア王オタカル2世がクレッセンブルンの戦いでベーラ4世を破り、両公国を奪った。オタカル2世は翌1261年にマルガレーテと離婚し、ここにオーストリアのバーベンベルク家は完全に消滅した。一方オタカル2世の勢力拡大を恐れた他の諸侯によってハプスブルク伯ルドルフ1世がドイツ王に擁立され、彼は両公国を自らの封土であると宣言した。1278年、マルヒフェルトの戦いでオタカル2世を敗死させたルドルフ1世は、息子のアルブレヒト1世とルドルフ2世をオーストリア・シュタイアーマルク両公国の共同統治者とした。 これ以降、シュタイアーマルク公国はハプスブルク家の所領となった。しかし、ゲオルゲンベルク協定では不可分とされていたはずのオーストリア公国とシュタイアーマルク公国は1739年のノイベルク条約で分割され、シュタイアーマルク公国、ケルンテン公国、クライン公国といったインナーエスターライヒはレオポルト3世の子孫(レオポルト系)が支配することになり、グラーツに宮殿が置かれた。1456年にシュタイエルスカのツェリェ伯領が編入されたことで、シュタイアーマルク公国の領域は大きく広がった。 また1457年、レオポルト系のフリードリヒ5世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世)のもとでオーストリア公国とシュタイアーマルク公国は同君連合に復帰した。その子のマクシミリアン1世は、1496年にシュタイアーマルクからユダヤ人を追放する法令を出し、少なくとも1856年まではグラーツに帰ってはいけないとした。1512年、シュタイアーマルク公国はオーストリア・クライスに編入された。
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