争いの激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)
324年1月、後趙の司州刺史石生が前趙領の新安を攻め、河南郡太守尹平を殺し、5000戸余りを奪って撤収した。この一件をきっかけに、前趙と後趙の本格的な抗争が始まった。5月、前涼の張茂が死ぬと、劉曜は使者を派遣し、張茂に太宰の官職と成烈王の諡号を贈り、張駿を上大将軍・涼州牧に任じて涼王の地位の継承を認めた。 325年5月、後趙の石生が洛陽に駐屯して河南を荒らし回ると、劉曜は劉岳に近郡の甲士5000と宿衛から精兵1万を与えて盟津から渡河させ、劉岳は盟津・石梁の二砦を攻め、これを陥落させて5000余りの首級を挙げ、さらに金墉へ進むと石生を包囲した。しかし後趙の中山公石虎が歩騎兵計4万を率いて救援に駆け付けると、劉岳の軍は逆に包囲されて兵糧が底を突き、馬を殺して飢えを凌ぐ状態までになった。さらに石虎は鎮東将軍呼延謨の軍を撃ち破り、呼延謨の首級を挙げた。これを受けた劉曜は自ら軍を率いて劉岳の救援に向かったが、石虎の軍の騎兵3万を以って行く手を阻まれると、兵士たちは後趙の軍に恐れをなして散り散りになってしまい、劉曜は長安への退却を余儀なくされた、6月、劉岳を始めとする軍内の氐羌3000人余りが生け捕りにされ、また士卒9000が石虎によって生き埋めにされた。
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