モンテ・アルバンの立地条件及び建設の契機
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「モンテ・アルバン」の記事における「モンテ・アルバンの立地条件及び建設の契機」の解説
モンテ・アルバンは、周囲との比高差400mの小高い山の上という立地条件から、農業用水や飲み水の確保に向かず、大部分の食料は輸入に頼らざるを得なかったと思われるが、一方で、盆地を一望できる天然の要害に位置し、オアハカの3つの小盆地を結びつける交通の要衝でもあったと考えられる。このことから、かつては外敵に対してオアハカ盆地の諸センターが連合し、盆地中央に中立的な「新首都」を建設したと考える研究者もいた。また、このような小高い山の上に祭祀センターを築いたのは、サポテカの人々にとって山が宗教的に神聖で重要な場所であったことを意味しているとも考えられるが、現在は、モンテ・アルバンが建設される直接の契機になったのは、先古典期中期から後期にかけてのオアハカ盆地の勢力争いの激化であると推察されている。というのは、モンテ・アルバンが建設される直前の時期にそれまでは盆地の底に集落が築かれていたのが、丘の上に防御機能を持った集落が次々と建設されるようになることが判明してきたからである。 勢力争いの中心になるのは、モンテ・アルバン建設直前の最大の祭祀センターである盆地北部のエトラ(Etla)谷に立地するサン・ホセ・モゴテ、盆地東部のトラコローラ(Tlacolula)谷地域の勢力、盆地南部のバジェ・グランデ(Valle Grande)又はサアチラ(Zaachila)谷地域の勢力であった。後二者が、サン・ホセ・モゴテに対抗して、モンテ・アルバンを築いたという説と、逆にトラコローラ、バジェ・グランデ連合に対抗してサン・ホセ・モゴテがモンテ・アルバンを築いたという二つの説が考えられている。 サン・ホセ・モゴテをはじめとするオアハカ盆地の遺跡を長年にわたって調査してきたマヤ文明の諸都市の関係についての研究で世界的に知られているジョイス・マーカス(Marcus,Joyce)と夫君ケントV.フラナリー(Flannary,Kent V.)は、後者の説を支持している。その理由として、モンテ・アルバンIa期の土器様式、建築様式、暦、文字体系は、直前のロサリオ期の様式を受け継いだものが多く、また、後述する「踊る人々(Danzantes)」の石彫は、サン・ホセ・モゴテ石碑3号の系譜を引くものであり、ペルーのチャビン文化の遺跡セロ・セチンと比較する研究者がいるもののメソアメリカには類例がないものであることが考えられる。
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