モンテ・アルバンの初期の歴史と「踊る人々」の石彫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/22 22:10 UTC 版)
「モンテ・アルバン」の記事における「モンテ・アルバンの初期の歴史と「踊る人々」の石彫」の解説
現在残っている建造物は、古典期に相当するモンテ・アルバンIII期のものがほとんどであるが、中央広場南西部隅にある「踊る人々の神殿」(Temple of the Danzantes)は、先古典期中期末から後期初頭の建造物で、神殿の周囲におかれた石彫には、あたかも踊っているように見える人物像「Danzante」や未解読のサポテカ文字とともにマヤにも受け継がれることになる点と棒表記の数字が暦と思われる表記とともに刻まれている石碑も見られる。「踊る人々」の石彫は、140以上見られ、髭を生やした老人、切り落とした首だけになっているもの、恥ずべき裸の姿にされた証拠に性器の輪郭が刻まれたり、性器の切除が刻まれ、血が流れている場面まで刻まれている。これは、モンテ・アルバンの支配者によって捕虜にされて拷問にかけられたり、殺害された首長や王たちを刻んでいると推定されている。このような石彫を刻むことによってモンテ・アルバンの支配者の権力、軍事力を誇示し、正当化する意味があったと考えられている。人物像の脇に刻まれたサポテカ文字は犠牲になった人物の名前を示しているのかもしれない。またマヤで用いられる260日暦(ツォルキン暦)365日暦(ハアブ暦)の祖形ができていたことが石碑に刻まれた碑文から判明している。 モンテ・アルバンI(前500年~前100年)、II期(前100年~200年)にかけて、都市の西部と北部に約3kmにわたって防御壁が築かれ、ダムと約2kmにわたる用水路が建設された。モンテ・アルバンの人口は紀元前100頃には1万7000人、オアハカ盆地全体では、5万人に達したと推定される。 モンテ・アルバンII期になると、天文台と考えられる建造物Jが建設され、その壁面には40以上の「征服石版」がはめ込まれている。「征服石版」には、人身御供になった人物や征服地または貢納を行なっていたと思われる地名が刻まれている。モンテ・アルバンII期の支配者は、140km圏内の町々を征服し、北方100kmのオアハカ盆地とテワカン盆地の中間点にクイカトラン・カニャーダ(Cuicatlán Canada)に前進軍事基地を築いた。
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