キエフ・ルーシ期とは? わかりやすく解説

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キエフ・ルーシ期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/01 22:55 UTC 版)

ドルツク」の記事における「キエフ・ルーシ期」の解説

ドルツク福音書』(be)から、10世紀には既に街があったことが確認されている。また発掘調査から、1001年には最初の教会建てられていたことが証明されている。年代記での初出1092年である。なお『モノマフの庭訓』(ru)の中では、1078年出来事に関する回想中に名が上がっている。位置的にはドルツクヴァリャーグからギリシャへの道一部である、西ドヴィナ川への連水陸路一つ面して建設された。 11世紀 - 12世紀に、ドルツクポロツク公国一部となったフセスラフ治世の後の争いの時代に、街はポロツク公位をめぐる争い巻き込まれた。1101年ドルツク公国首都となり、1116年にほぼ完全に破壊されたが、再び復興された。街は強化されドルツク公国は、ポロツク公国内外への影響力を高めよう画策しはじめた1151年ポロツク公位を追われたログヴォロドがスルツク逃亡するのを助け、ログヴォロドのポロツク公復帰支援する意志表明した1158年チェルニゴフ公スヴャトスラフ援助受けたログヴォロドがドルツク赴いたとき、ドルツク人々は街からグレプ当時ポロツク公ロスチスラフの子)を追放したロスチスラフ報復攻撃始めると、ログヴォロドを擁護するドルツク人々頑強に抵抗した。この争い結果としてはログヴォロドが妥協しポロツク公位の請求権放棄しドルツクに公として留まった(なお、ログヴォロドは1159年に再びポロツク公となる。) ドルツク13世紀初めに全盛期迎え14世紀初めにリトアニア大公国一部となった

※この「キエフ・ルーシ期」の解説は、「ドルツク」の解説の一部です。
「キエフ・ルーシ期」を含む「ドルツク」の記事については、「ドルツク」の概要を参照ください。

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