キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転」の解説
ルーシ全域が混乱していた1249年、南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ公ダニールはローマ教皇インノケンティウス4世から王号を受け、塗油と戴冠を受けた。こうしたダニールの動きに、コンスタンティノープル総主教は脅威を感じる。キエフ府主教は先述の通りコンスタンティノープル総主教の影響下にあり、コンスタンティノープル総主教の利害の下に動いていた。ダニールの推挙を受けたキエフ府主教キリルでさえもその例外ではなかった。荒廃したキエフからの遷座の行き先を決めるさい、親ローマの旗幟を鮮明にするハールィチ・ヴォルィーニ大公ダニールとは距離を置いたキリル府主教が着目したのは、ローマとの対決姿勢を鮮明にする北東ルーシのウラジーミルであった。 キリルはウラジーミルへの遷座の準備を精力的に進めたが、実現前に永眠する(1282年)。その後、北東ルーシ諸公の抗争のために遷座は暫く延期されたが、戦乱が収束した1299年、キリルの後継であるキエフ府主教マクシモスはウラジーミルへの遷座を実行した。 ウラジーミルへの遷座後も「キエフ及び全ルーシの府主教」の称号は維持され、キエフ及びルーシの府主教マクシモスが「ウラジーミル主教」を兼任。それまでのウラジーミル主教はロストフ主教に転出した。これはルーシの安定を志向した府主教座が、自らの称号に「全ルーシ」を加えることによって、ルーシが一体となった安定した姿を理想として提示しようとした意思表示でもあったとされる。「キエフ」の名を残したのは、キエフ以外の都市名を冠した第二府主教座の設置が、ルーシの教会組織の統一性の阻害要因になると判断されたためであった。 遷座により、モンゴルやローマカトリック諸国からの直接的脅威から免れるという目的は達成された。だがこれ以降、理想的状況とは程遠い北東ルーシ諸公の抗争が特にトヴェーリとモスクワの間で戦われていく中、キエフ府主教座は否応無しに政争に巻き込まれ、あるいは政争に介入せざるを得ない局面が生まれてくることになる。 キエフ及び全ルーシの府主教座は、1325年頃以降、モスクワへその根拠地を移転していくことになるが、これが定着するまでにはなお紆余曲折があった(後述)。
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