キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転とは? わかりやすく解説

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キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)

ロシア正教会の歴史」の記事における「キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転」の解説

ルーシ全域混乱していた1249年南西ルーシハールィチ・ヴォルィーニダニールローマ教皇インノケンティウス4世から王号を受け、塗油戴冠受けたこうしたダニール動きに、コンスタンティノープル総主教脅威感じる。キエフ府主教先述通りコンスタンティノープル総主教影響下にあり、コンスタンティノープル総主教利害の下に動いていた。ダニール推挙受けたキエフ府主教キリルでさえもその例外ではなかった。荒廃したキエフからの遷座行き先決めるさい、親ローマ旗幟鮮明にするハールィチ・ヴォルィーニ大公ダニールとは距離を置いたキリル府主教着目したのは、ローマとの対決姿勢鮮明にする北東ルーシウラジーミルであったキリルウラジーミルへの遷座準備精力的に進めたが、実現前に永眠する1282年)。その後北東ルーシ諸公抗争のために遷座暫く延期されたが、戦乱収束した1299年キリル後継であるキエフ府主教マクシモスウラジーミルへの遷座実行したウラジーミルへの遷座後も「キエフ及び全ルーシ府主教」の称号維持されキエフ及びルーシ府主教マクシモスが「ウラジーミル主教」を兼任それまでウラジーミル主教ロストフ主教転出した。これはルーシ安定志向し府主教座が、自らの称号に「全ルーシ」を加えることによって、ルーシが一体となった安定した姿を理想として提示しようとした意思表示でもあったとされる。「キエフ」の名を残したのは、キエフ以外の都市名冠した第二府主教座の設置が、ルーシ教会組織統一性阻害要因になると判断されたためであった遷座により、モンゴルローマカトリック諸国からの直接的脅威から免れるという目的達成された。だがこれ以降理想的状況とは程遠い北東ルーシ諸公抗争が特にトヴェーリモスクワの間で戦われていく中、キエフ府主教座は否応無しに政争巻き込まれ、あるいは政争介入せざるを得ない局面生まれてくることになる。 キエフ及び全ルーシ府主教座は、1325年以降モスクワへその根拠地移転していくことになるが、これが定着するまでにはなお紆余曲折があった(後述)。

※この「キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転」の解説は、「ロシア正教会の歴史」の解説の一部です。
「キエフ及び全ルーシの府主教座の北東ルーシへの移転」を含む「ロシア正教会の歴史」の記事については、「ロシア正教会の歴史」の概要を参照ください。

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