キエフ大公国のニエロ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 03:17 UTC 版)
「キエフ大公国#工業」および「キエフ・ルーシ期の都市#産業」も参照 10世紀から13世紀の間、キエフ大公国の職人たちは、他の世界のどの国の職人よりも、高い装身具製造技術を持っていた。熱した鉄、蝋、石の鋳型、ニエロや七宝の象嵌を含む技術を完璧に使いこなし、キエフ大公国の職人たちの手による作品は、当時、世界で並ぶものがなかった。12世紀の東ローマ帝国の著述家John Tsetsesは、キエフ大公国の職人たちを賞賛し、その仕事をギリシア神話に出てくる名工ダイダロスの作品に例えた。 ニエロはさまざまなものに使われた。剣のつか、聖杯、皿、角状の器、馬のための装飾品などがそうだが、最も多く使われたのは女性のための装身具で、具体的には、ネックレス、ブレスレット、指輪、トルク、ペンダント、ボタン、ベルトバックル、ヘッドドレス、などである。 キエフ大公国のニエロ塗りの技術は、次のようなものである。 まずルプセ(en:Repoussé and chasing)技法で銀または金を形作り、浮き彫りし、成型する。 次に、それを高浮き彫り(en:Alto-relievo)し、背景にニエロを詰め込むが、その方法は、レッドコパー、鉛、銀、炭酸カリウム、ホウ砂、硫黄の混合物を液化させ、凹面の表面に流し込むものである。 窯の中でそれを焼く。窯の熱がニエロを黒ずむことで、他の装飾はより目立つことになる。 型を使って大量に作られたニエロ製品は、ギリシャ、東ローマ帝国、さらにヴァリャーグ - ギリシャ間の交易路(ヴァリャーグからギリシアへの道)に含まれる国の人々に取引された。それらは現存している。 1237年から1240年にかけてのモンゴル帝国の侵略で、キエフ大公国全土は荒らされ、村や仕事場は焼かれ、土地は壊され、多くの職人たちが殺されてしまった。ニエロや七宝の技術はそれ以降減退してしまった。 主にウクライナ中で見つかった墓から回収されたニエロ製品の巨大なコレクションが、キエフのウクライナ歴史宝物博物館にある。
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