キエフ総主教庁の創設
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「フィラレート (キエフ総主教)」の記事における「キエフ総主教庁の創設」の解説
1991年8月24日、ウクライナがソビエト連邦からの独立を宣言すると、ウクライナ正教会の教会会議(a national Sobor)が11月1日から3日にかけて行われた。この教会会議では、投票権を委任されたメンバー、(これにはウクライナ正教会全ての主教、聖職者に加えて各教区の信者代表、および各修道院と神学校の代表者、認められた修道士などが含まれていた)は満場一致で、これ以降、ウクライナ正教会は独立正教会として活動するという決議を採択した。またこれとは別に、フィラレート府主教が首座主教となることを希望するという決議も満場一致で支持された。 1992年3月から4月にかけて、ロシア正教会の主教会議がたった一つの議題のために招集された。ウクライナ正教会が4か月前に通過させた教会会議の決議をどう考えるべきかについて、である。しかしこの議題自体は議論されることなく、フィラレートに辞任要求が突きつけられた。会議2日目、フィラレートはウクライナ正教会シノドに対して府主教辞任を申し出ることに同意し、ロシア正教会シノドは以下の決議を採択した: 「主教会議は、教会の平安のため、次回のウクライナ正教会主教会議に於いて、フィラレート府主教がウクライナ首座主教の任を解かれるよう自ら辞任願を出すという、キエフおよび全ルーシ・ウクライナ府主教フィラレート聖下による声明を評価する。フィラレート府主教の立場を理解して、主教会議は彼に対して、これまでのキエフを管轄する主教(Archbishop of the See of Kyiv)としての奉仕に感謝を表し、ウクライナ正教会における別の聖堂の主教となられるよう祝福する。」 しかし、フィラレートはキエフに戻ると、先の辞任承諾を撤回する。4月14日、フィラレート府主教は記者会見を開いて、モスクワのロシア正教会聖シノドに於いて、直接およびFSB職員による強迫による不当な圧力を受けたと申し立てた。FSB職員は会議に同席していた、とフィラレートは語った。フィラレートは、自分の辞任は「教会に平安をもたらさず、信者の意思に背き、教会法にも反することになるであろう」という見地から、辞任を撤回すると表明した。 この後ほどなく、ロシア正教会は、教会分裂とみられる状態が生じる事が不可避となったことで、これに対抗するための聖シノドを立ち上げるよう援助し、これは1992年5月に ハルキウ で実現した。こちらのシノドの主教たちは、ロシア正教会の主教、ヴォロディームィル・サボダンをキエフ府主教に選び、モスクワから ウクライナ正教会としての承認を受けた。 1992年6月25日、フィラレート府主教に忠実な主教たちは、ウクライナ独立正教会 (ウクライナで近年復活したもう一つの教会)のグループと合同で教会会議を開催した。代表者たちは、二つのグループを統合して、ウクライナ正教会・キエフ総主教庁(Ukrainian Orthodox Church - Kyiv Patriarchate - UOC-KP)となし、ムスティスラウを総主教としていただくこととなった。 1993年にムスティスラウ総主教が死去すると、この教会はヴォロディームィル総主教に引き継がれ、1995年7月、ヴォロディームィル総主教の死去により、フィラレートが160対5でウクライナ正教会・キエフ総主教庁の総主教に選出された。 フィラレート総主教は、自身の教会をウクライナ唯一の民族教会とするべく先頭に立って努力した。結果として、2018年12月に新生「ウクライナ正教会 (2018年設立)」が発足する運びとなったが、自身は退任することとなった。
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