10世紀から13世紀
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「リムブルク・アン・デア・ラーン」の記事における「10世紀から13世紀」の解説
リムブルクの名前は910年に初めて文献に記述されているが、それは集落の名前ではなく、地理的状況、すなわち山の名前であり、Lintpurc と表記されている。幼童王ルートヴィヒが、ガウの伯コンラート・クルツボルトにオーバーブレヒェンの館を付属する全てのものと耕作する土地とともに与えた。コンラートは与えられた所領の、ラーン川河畔の石灰岩の岩山の上に城を築いた。この文書では聖ゲオルク聖堂参事会はまだその存在が確認されない。この城塞は現在、痕跡も遺されていない。この文書は現在ヴィースバーデン中央文書館に収蔵されている。現在のリムブルク聖堂にあたる参事会教会の建設は、おそらく、この文書が作成された直後に始まった。参事会教会の設立後この集落は急速に重要性を増し、ヘーエシュトラーセ(ヴィア・プブリカ)の活発な貨物輸送の恩恵を受けた。教会と一門が保持した代官権によってリムブルクのコンラディン家はその後の権力基盤を創り出した。 参事会は、クルツボルトとヒルデスハイム司教(ドイツ語版、英語版)ディートハルトの請願により、940年に今度はオットー1世から新たな寄進を得た。それまでニーダーツォイツハイムの貴族エーバーハルトが所有していた土地を聖職者の生計向上のためにこれを贈ったのであった。この文書はクヴェトリンブルクで作成された。その後間もなくオットー1世はこのリムブルクの参事会をその所有財産とともに自分の庇護下に収めた。これにより、この参事会を攻撃して脅かす者は、王の報復を恐れなければならなくなった。王は、何人たりとも、クルツボルトの死後にもリムブルク参事会をレーエンとして授けたり、譲渡することはできないと定めた。この規定および類似の法的活動は、この参事会が、従ってリムブルク自体が、おそらく10世紀にはすでに、遅くとも12世紀初めには法的にも政治的にもニーダーラーンガウの一部ではなくなっていたことを推察させる。 コンラディン家は10世紀後半にニーダーラーンガウの伯の地位をディーツ家(ドイツ語版)に奪われた。ディーツ家はその少し前にこの地域に現れたばかりであったが、参事会の代官としてリムブルクを保持した。ディーツ家はすぐ隣のディーツを新たな権力中心として拡充した。皇帝コンラート2世は11世紀に聖ゲオルク参事会にブドウ畑と「ホーフ・ツー・カンプ」(現在のカンプ=ボルンホーフェン(ドイツ語版、英語版))を譲渡した。ゲオルク参事会は、遅くとも12世紀初めには本市を含む広い領域を支配しており、その代官が法を執行する権限を有して、支配権を強化していった。リムブルクも地域支配の拠点となっていった。 本市は11世紀に約 1.8 ha の参事会教会と城の管轄領域から城山を下って西方面に拡大し、12世紀初めに市壁で囲まれた。市壁は、後のエアバッハー・ホーフの南端付近から、後のローゼンガッセの東側、現在のベーマーガッセの南、現在のコルピングガッセの東を通って、再び城までつながっていた。市壁は城の管轄域を含む約 11 ha を囲んでいた。 1160年に、ケルンからフランクフルト・アム・マインへの街道の一部としてラーン川に木製の橋が架けられ、遅くとも1227年から第一次世界大戦まで通行者に税が課された。これはこの街の歴史において最も重要な収入源であった。聖職者ゴットフリート・フォン・ベーゼリヒが建造者であったと伝えられている。12世紀末に現存するリムブルク城の最初の建設が始まった。おそらく1219年に城と参事会の代官権は、したがってリムブルク市とその周辺の支配権も、イーゼンブルク家に移された。それまでには、コンラディン家からグライベルク=ルクセンブルク家、パイルシュタイン家、ライニンゲン家(ドイツ語版、英語版)を経てイーゼンブルク家に至るまでの、極めて複雑で、現在では明確に解明できないプロセスがあった。イーゼンブルク家は、マインツ大司教およびヘッセン方伯と 1/3 ずつこの帝国からのレーエンを分け合っていた。この新しい領主は、その後数十年にわたって、リムブルク住民の権利を抑圧し、自らの権力を強化しようと努めた。これに対して、発展して経済的な重要性を獲得し、都市と認識されるようになったこの街の住民たちは抵抗を示した。イーゼンブルク家の傍流は遅くとも1258年から1406年までリムブルク城に住み、後にリムブルク家と呼ばれるようになった。この家系からドイツ王アドルフ・フォン・ナッサウの妃イマギナ・フォン・イーゼンブルク=リムブルク(ドイツ語版、英語版)が誕生した。 1180年にリムブルクでの貨幣の鋳造が許可された。1214年にシュタウフェン家の王フリードリヒ2世からこの街に都市権が授けられた。本市はフランクフルトの都市権ファミリーに属した。都市領主と市民との紛争、あるいは都市参審裁判の不一致の際にはオーバーホーフ・フランクフルトが決定機関となった。1279年に市とイーゼンブルク家の城主との間で協定が結ばれた。この中で、領主は都市の自由市民の権利を制限することはできないが、修道院の支配下にあるエルツ、ブレヒェン、ヴェルシャウは別であることが明示された。また、市を防衛し、防備を強化する権利もこの協定で言明された。 1232年にはすでにフランシスコ修道会がリムブルクで活動しており、1252年からは、ロスマルクトに聖ラウレンティウスに献堂された固有の木造教会を有していた。この建物は14世紀初めに現在の市教会に建て替えられた。かつての参事会教会の場所には聖ゲオルク聖堂が建設された。その建設が始まった時期は精確に判明していないが、1235年に完成している。 1246年からリムブルクにベギン会が存在していたことが証明されている。その会員は、特に市民階級の女性で構成されていた。ゲルラハ1世(ドイツ語版、英語版)(1298年没)の要請によって、リムブルク・ヴィルヘルミーテン修道院が、初めはラーン川の中州に設けられた。 1289年5月14日に壊滅的な都市火災が起き、リムブルク内市街の広い部分が破壊されたが、すぐに復興された。リムブルクに現存するおそらく最も古い建物であるレーマー2-4-6番地の家屋はこの時に建設されたものである。 12世紀から13世紀に2つのフォアシュタット(ドイツ語版、英語版)が建設された。そのうちの1つはフランシスコ会の集落と関連して城の南に建設された。湿った土地で建築条件が良くなかったことから、単純な職人が主に住んだ。その後数十年の間に、教会沿いに市の大きな住民墓地ラウレンティウス=キルヒホーフが設けられた。もう一つのフォアシュタットは、現在のコルンマルクトの東からプレッツェやザックガッセを経由してレールガッセまで市壁前に弓状に発展した。
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