キルヒホーフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/17 02:41 UTC 版)
キルヒホーフ集落(教会を取り囲む形で形成された集落)は、明らかに防衛施設として利用されていた。それは、1340年頃(よりによって破壊されていた時期であったのだが)に propugnaculum Anthem と記したヴェーヴェリングホーフの年代記の著者には、きたるべきオスナブリュック司教との戦いにおける砦としてミュンスター司教ルートヴィヒ2世にとって軍事的に重要であると思われた。再建された施設は1848年までは明らかに、1870年にヘルマン・ハルトマンが描写した軍事的色合いの強い姿を留めていた。1796年の時点でもこのキルヒホーフは、「400人の兵士を率いる1人の司令官と守備を行うために必要な銃を有し」守備を固めていた。舌状の形(あるいは卵形)をしたキルヒホーフの周囲は600歩(約 450 m)、東西の最大長は 228歩(約 171 m)、東側の最大幅は 110歩(約 82 m)であった。最も高い場所は西側でアンクマー川の切り立った谷となっており、土塁の東側はフォーゲルベルクに接していた。先端には、アンクム・ゴー裁判所の裁判席があり、判事はここから、ゴー裁判区の大部分からベルゼンブリュックやゲールデの教会塔まで見渡すことができた。1820年頃のキルヒホーフは、ハルトマンの回想やクロッケの1788年のメモによれば、高さ 12フス(約 4 m)、幅 3フス(約 1 m)、花崗岩製の、支壁を有する環状壁が造られていた。その石造りの倉庫や3か所の堅牢な入り口は中世の村の要塞の面影を示していた。キルヒホーフの西側には、古びた壁が現存している。2つの堅牢な門が南側に、1つ(「ウンテルステ・プフォルテ」=「一番低い門」)は西側の壁に組み込まれていた。3つの門はいずれも3階建てで、2つの翼棟を有し、鉄釘を打ち付けたオーク製の扉で閉ざすことができた。キルヒホーフの南東側にある門は、「ホーエ・プフォルテ」(「高い門」)と呼ばれ、市庁舎としても利用された。 ミットレーレ・プフォルテ(中央の門)の西側に環状壁に組み込まれる形でマイヤー・ツー・シュタルテンの倉庫があった。ミットレーレ・プフォルテの東は、ホーエ・プフォルテまで木組み建築の様式で造られたリュッセルのシュルテン、マイヤー・ツー・ヴェスターホルテの倉庫、市議会の倉庫が並んでいた。ホーエ・プフォルテの北側、東の壁の内側沿いにビュンカーの倉庫があった。キルヒホーフの東半分にはビッペンの倉庫があり、その近くにボッセ・ツー・ヴェストルプの干し草倉庫があった。ハルトマンは、この最後の2つの建物についてキルヒホーフの美観を損ねるものであり、敷地の北東端へ移転させられたと述べている。空いた空間はエッガーミューレのベーゼラーガー家によって購入され、墓所が設けられた。その北側、北の壁の内側にヴェルマンの館があった。教会堂とミットレーレ・プフォルテとの間に、ハルトマンの言葉によれば「古く、とても太いシナノキ」があり、「その下で村の集会が行われ」ていた。 切りだされた花崗岩で建設された教会の塔についてハルトマンは「完全にベルクフリートである」と書いている。
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