10世紀初頭の社会情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
その10世紀初頭の地方社会経済に目を転じると、旧来の郡司の勢力が弱体化しはじめると同時に、王臣子孫も含めた新興勢力・有力農業経営者が台頭を始める。それら私営田経営者、そして弱体化し始めたとはいえ、いまだ一定の勢力を保つ郡司と、強化された国守・国衙の権力との利害対立が顕在化していく。 その利害対立は、京の都の近国においては藤原元命に対する「尾張国郡司百姓等解文」で有名な国司苛政上訴として現れるが、多くは武力による衝突までにはならずに調整が図られる。しかし、京より遠い東国においては、朝廷や貴族間における調停などの調整は期待出来ない。そして、その多くは京の貴族の縁者である私営田経営者と、郡司層と国衙の利害対立、あるいは私営田経営者同士の対立は往々にして実力行使として爆発する。 良い例が、後に平将門を倒して英雄となる藤原秀郷である。915年(延喜15年)2月、上野国で上毛野(かみつけぬの)基宗、貞並らに大掾藤原連江(つらえ)らが加わる反受領闘争があり、受領藤原厚載(あつのり)が殺される。この事件に隣国下野の住人藤原秀郷も荷担していたのか、朝廷は下野国衙に秀郷とその党18人の配流を命令する。更に929年には下野国衙は秀郷らの濫行(らんぎょう)を訴え、朝廷は下野国衙と隣国五カ国に秀郷の追討官符を出すが秀郷らが追討された形跡はない。平将門が叔父らと抗争を始める僅か2年前のことである。
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