10世紀初頭のドゥーカス家とは? わかりやすく解説

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10世紀初頭のドゥーカス家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 04:32 UTC 版)

ドゥーカス王朝」の記事における「10世紀初頭のドゥーカス家」の解説

一族最初に歴史上現れるのは9世紀半ばテオドラテオフィロス皇后)の摂政時代842年 - 855年)に、パウロ派を東方正教改宗させるために派遣され人物である。その人物は「Douxの息子」とのみ知られているが、ヨハネス・スキュリツェスはその名をアンドロニコスと書き入れている。これは、おそらく後述するアンドロニコス・ドゥーカス混乱していると考えられるが、この名は現代の文献にも用いられている。 この一族最初に有名になったのは、10世紀初頭の(文献には通常Doukas」よりも古体の「Doux」として現れている)アンドロニコス・ドゥーカスおよびその息子のコンステンティノス・ドゥーカスである。 両者とも皇帝レオーン6世時代886年 - 912年)に高位軍司令官にあった904年頃に、アンドロニコスは反乱加わって敗北しバグダッド逃亡し、そこで910年ごろ殺害された。コンスタンティノス生き延び、再び高官返り咲き、スコライ軍団司令長官(ドメスティコス・トーン・スコローン)となった。しかし、コンスタンティノス913年6月クーデター失敗し息子グレゴリオスと甥のミカエルとともに殺された。 彼らの死、コンスタンティノスの下の息子ステファノス去勢追放、および917年のカタシルタイの戦いにおけるニコラオス・ドゥーカス(関係は不詳)の死を以って東ローマ文献から最初のドゥーカス家の記録姿を消す12世紀歴史家ヨハネス・ゾナラスが記録しているように、このドゥーカス家は断絶し、後のドゥーカス家はこの10世紀一族女系の子孫と考えられる

※この「10世紀初頭のドゥーカス家」の解説は、「ドゥーカス王朝」の解説の一部です。
「10世紀初頭のドゥーカス家」を含む「ドゥーカス王朝」の記事については、「ドゥーカス王朝」の概要を参照ください。

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