10世紀初頭のドゥーカス家
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「ドゥーカス王朝」の記事における「10世紀初頭のドゥーカス家」の解説
一族で最初に歴史上に現れるのは9世紀半ばのテオドラ(テオフィロスの皇后)の摂政時代(842年 - 855年)に、パウロ派を東方正教に改宗させるために派遣された人物である。その人物は「Douxの息子」とのみ知られているが、ヨハネス・スキュリツェスはその名をアンドロニコスと書き入れている。これは、おそらく後述するアンドロニコス・ドゥーカスと混乱していると考えられるが、この名は現代の文献にも用いられている。 この一族で最初に有名になったのは、10世紀初頭の(文献には通常「Doukas」よりも古体の「Doux」として現れている)アンドロニコス・ドゥーカスおよびその息子のコンステンティノス・ドゥーカスである。 両者とも皇帝レオーン6世の時代(886年 - 912年)に高位の軍司令官にあった。904年頃に、アンドロニコスは反乱に加わって敗北し、バグダッドに逃亡し、そこで910年ごろ殺害された。コンスタンティノスは生き延び、再び高官に返り咲き、スコライ軍団司令長官(ドメスティコス・トーン・スコローン)となった。しかし、コンスタンティノスは913年6月にクーデターに失敗し、息子グレゴリオスと甥のミカエルとともに殺された。 彼らの死、コンスタンティノスの下の息子ステファノスの去勢と追放、および917年のカタシルタイの戦いにおけるニコラオス・ドゥーカス(関係は不詳)の死を以って、東ローマの文献から最初のドゥーカス家の記録は姿を消す。12世紀の歴史家ヨハネス・ゾナラスが記録しているように、このドゥーカス家は断絶し、後のドゥーカス家はこの10世紀の一族の女系の子孫と考えられる。
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