教会の建設
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蟻の街の子供たちを世話する北原怜子の姿に感動した小澤は、子供たちの勉強部屋を確保するために2階建て家屋を蟻の街に建設する。これは、東京都の隅田公園管理者により取り壊し命令を受けるが、小澤は、ゼノ修道士が以前に東京都の担当者から教会建設を許可する念書を預ったことを思い出す。この2階建て家屋の屋上には大きな十字架を立て、1951年5月13日に「蟻の街の教会」が完成する。3年後の1954年8月29日には、東京大司教により許しを得てカトリック浅草教会の司祭が来てミサが執り行われる。松居がマスコミ相手にその場の思い付きで口にしたカトリック教会の建設だったが、この教会設立が実現することを信じていたのがゼノ修道士であった。 その後、ゼノや北原に影響を受けた小澤を始めとする十数名の蟻の街住民がカトリック教会の洗礼を受けることになった。その中には、当初、カトリック関係者に不信感を持っていた松居もいた。小澤の洗礼名はゼノ、松居の洗礼名はヨゼフである。
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教会の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 13:44 UTC 版)
15世紀初頭、ゴシック様式の地上1階地下1階建ての教会が墓地の中央に建てられた。教会の建設工事に伴って埋葬者の一部が掘り起こされて亡骸が教会の建物の地下に運び込まれた。それ以来、教会の地下階が納骨堂として用いられるようになった。大きくなりすぎた墓地の規模を縮小するため、教会が完成したあとも死者の掘り起こしが続けられた。この作業は1511年の半盲のシトー会修道士の記録にはじまり、掘り出された人骨は納骨堂に整然と積み重ねられていった。堂内には、全部で約4万人分の人骨が納められた。 1703年から1710年にかけて、イタリア系チェコ人建築家のヤン・ブラジェイ・サンティニ・アイヒェル (Jan Blažej Santini Aichel) によって、教会地上部分と入り口がボヘミア後期バロック様式に改築された。神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の改革により、侯爵の家系であったシュヴァルツェンベルク侯家がこの教会の後見となり、19世紀には教会を購入した。1870年、シュヴァルツェンベルク家はスカリツェ出身の木彫家フランティシェク・リント (František Rint) に尋常ならざる内装制作を依頼した。それは、制作の素材として木材ではなく、納骨堂に納められていた人骨を用いるというものであった。
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