教会の建て替え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)
「クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)」の記事における「教会の建て替え」の解説
1171年、ヘンリー2世は大聖堂のクリスマス礼拝に出席し、その年から後、リチャード・ド・クレア(ストロングボウ)やそのほかのアングロ・ノルマン系の大物は、クワイヤ(聖歌隊席)、内陣通路 (choir aisles) および翼廊、地下室、そして聖エドマンド (en) と聖母マリアと聖ロウ (en) の各チャペルの建設で構成されるクライストチャーチの全面的な建て替えの費用を工面した。そして、聖ローレンス・オトゥールのチャペルは1200年代に追加され、現存する多くの身廊は1230年代に造られた。 1300年、ダブリン大主教フェリングスは2つの大聖堂を統合するための協定 (Pacis Compostio) を取り決めた。これは双方とも司教座聖堂として認められている2つの大聖堂が分有する形となっていた権限を順応させるための対策であった(詳しくは#2つの大聖堂問題を参照) 1358年まで、大聖堂の身廊はある程度世俗の目的に使われており、また「long quire」と呼ばれる部分が追加され、以前のクワイヤ部分からすると10メートルほど広くなった。1487年に大聖堂はヘンリー7世を廃位するために担ぎ出されそれに失敗した少年であるランバート・シムネルの「イングランド王エドワード6世」としての戴冠式に使われた。1493年にはクワイヤ学校が設立された。
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