2つの大聖堂問題
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「クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)」の記事における「2つの大聖堂問題」の解説
ダブリン主教区においてクライストチャーチと聖パトリックが双方とも大聖堂の状態(つまり1つの教区に2つの大聖堂という状態)であるということは歴史的にみてもまれなことであった。時代をさかのぼると立場についてかなりの対立があったが、2つのすみわけは、構成法(ラテン語: Pacis Compositio。法的には1870年まで有効)という1300年に取り決められた6つの協定によって一応の解決を見た。協定の内容は以下の通り ダブリン大主教の聖別および任命式はクライストチャーチで行う。 - ただし記録ではそれが必ずしも守られていなかったことを伝えている。多くの大主教任命では両方で行われており、加えて少なくとも2例では聖パトリック大聖堂のみで行っている。 クライストチャーチは主教区(司教区)の本山と上級大聖堂として形式的な優先順位をもつ。 クライストチャーチは亡くなった各ダブリン大主教の十字架、ミトラ、および指輪を所蔵する。 亡くなったダブリン大主教の遺体は本人の意思が無い限りは2つの大聖堂に交替で埋葬していく(つまり、クライストチャーチに1人が埋葬されたら次の大主教は聖パトリックに埋葬される)。 主教区にまわす塗油用の油の聖別はクライストチャーチが執り行う。 二つの大聖堂は一つとして振る舞い、特権も等しく分け合う。
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2つの大聖堂問題
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「聖パトリック大聖堂 (ダブリン)」の記事における「2つの大聖堂問題」の解説
2つの大聖堂が1つの都市にあるということはほとんど先例がなく、さらに聖パトリックは、修道院外 (宗教的な規則、言い換えれば修道会やルール、の一員ではない教区の聖職者)の聖職者によって、(修道院規則によって管理されている) クライストチャーチに取って代わる大聖堂として意図されたものとある程度思われていた。 聖パトリックの設立以来数十年にわたってかなりの緊張のまま対立状態は継続して、結局1300年に調印された6つの要件からなる構成法(Pacis Compositio)によって解決した。これは法的には1870年まで有効であったが、内容は以下の通り。 ダブリン大司教 (大主教) の聖別および任命式はクライストチャーチで行う。 - ただし記録ではそれが必ずしも守られていなかったことを伝えている。多くの大司教任命では両方で行われており、加えて少なくとも2例では聖パトリック大聖堂のみで行っている。 クライストチャーチは司教区 (主教区) の本山と上級大聖堂として形式的な優先順位をもつ。 クライストチャーチは亡くなった各ダブリン大司教の十字架、ミトラ、および指輪を所蔵する。 亡くなったダブリン大司教の遺体は本人の意思が無い限りは2つの大聖堂に交替で埋葬していく(つまり、クライストチャーチに1人が埋葬されたら次の大司教は聖パトリックに埋葬される)。 司教区にまわす塗油用の油の聖別はクライストチャーチが執り行う。 二つの大聖堂は一つとして振る舞い、特権も等しく分け合う。 その後の数世紀、国教が廃止されるまでの間2つの大聖堂は主教区の中でともに機能し、現在ではひとつ (クライストチャーチ) はダブリンおよびグレンダーロッホ主教区の大聖堂に指定され、そしてもうひとつは国立大聖堂になっている。
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