19世紀と修復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:56 UTC 版)
「聖パトリック大聖堂 (ダブリン)」の記事における「19世紀と修復」の解説
1805年までに北の翼廊は廃墟と化しており、南側の翼廊も悲惨な状態であったが、より切迫した工事は足場によって支えられていた身廊の屋根におこなわれたものであった。1846年、聖パトリック大聖堂の首席司祭はクライストチャーチの首席司祭と統合され、この状態は1872年まで続いた。 悲惨な経済状況によって制限されていたが、首席司祭パナケム(1843年から1864年まで首席司祭)の下では大規模な修理を始めることが計画された。レディーチャペルは修復され、床(当時数フィート高くなっていた)はもともとの高さまで下げられ、他の切迫した箇所に対しても少なくとも部分的な対処はなされた。 19世紀半ば、大聖堂の近くに埋もれていたケルト十字が見つかった。これは今も保存されており、もしかしたら初期の聖泉の場所を印したものではないかと考えられている。 ベンジャミン・ギネスの出資により1860年から65年にかけて大規模な修復が行われたが、これは大聖堂崩壊の危険が差し迫っているという危機感に感化されたものだった。また、このことは現在の建物や装飾品のほとんどはヴィクトリア朝からのものであるということでもある。中世の寄進礼拝堂は他の動きで取り除かれており、今日ではその仕事の痕跡はほとんど生き残っていない。 再建によって大聖堂が存続することは確実になったものの、再建の程度を記録しておくことを怠ったことで現在の建物のどこまでが本当に中世由来のものでどこまでがヴィクトリア朝のレプリカなのかがほとんどわからなくなっている。ギネス (彼はビール醸造家であった) は彼が「井戸のリベカ (Rebecca at the well)」のステンドグラスを寄贈し、「私は喉が渇いており、汝らは私に飲み物を与えた (I was thirsty and ye gave me drink)」という抱負を読んだ際にはやんわりとした批判を受けた。彼の像は南側のドアの外に置かれている。 大聖堂の大きな変革は1871年に起きた。アイルランド国教が廃止され国教会が国教ではなくなった後、新しく独立した教会総会はクライストチャーチを単一かつ明白なダブリン主教区の大聖堂とし、そして聖パトリックは国立大聖堂とすることでついに「2つの大聖堂」問題を解決した。
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