教会の指導者及び共産主義への反対
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「ミンツェンティ・ヨージェフ」の記事における「教会の指導者及び共産主義への反対」の解説
第二次世界大戦終了後の1945年9月15日、エステルゴム大司教(en:Roman Catholic Archdiocese of Esztergom-Budapest、ハンガリーの首都大司教)に指名された。1946年2月18日、教皇ピオ12世により枢機卿に任命された。 1948年、政府によりハンガリーでは多くの修道会の活動が禁じられ、残りの修道会の活動も大幅に制限された。同年12月26日、ミンツェンティは再び逮捕され、外患罪、共謀罪、および新たに成立した共産党政府の法律に反対した罪で告訴された。逮捕される少し前に、彼は如何なる陰謀にも加担せず、あらゆる告白は強迫の結果であるという趣旨をノートに書いた。 共産党政府により投獄されている時、彼はアメリカ人と共同でハンガリーに反抗したと「告白」したという。強要された「告白」の中で、オットー・フォン・ハプスブルクを東ヨーロッパの皇帝にする目的で聖イシュトヴァーンの王冠を含むハンガリーの王冠を盗む指揮を取った共産党政府を取り除くよう策謀し、第三次世界大戦を計画して戦争がアメリカの勝利となった暁には、彼自身はハンガリーで政治的権力を約束された等を認めたとされた。 1949年2月3日に公判は始まった。2月8日には共産党政府に対する反逆罪で終身刑の判決を下された。政府は『ミンツェンティのケースに関する書類』という彼の「告白」を含んだ証拠を収録した本を出した。ミンツェンティは法廷に入り、公然と非難された罪を「告白」した。2月12日、教皇ピオ12世は、裁判及び判決に関わった全ての人物に対して破門を宣告した。教書「アチェリモ・モエローレ」で公式に枢機卿の投獄を非難し、枢機卿が虐待されていると述べた。ミンツェンティは、後にゴム製の警棒で「告白」するよう同意するまで殴打されたと語った。 1956年10月30日のハンガリー動乱の最中にミンツェンティは牢獄から釈放され、翌日にはブダペストに戻った。11月2日、彼は反抗者を賞賛し、その翌日には反共産主義的進展に対して好意的なラジオ放送をおこなった。後にカーダール・ヤーノシュの自称「労働者と農民の政府」は、ハンガリー動乱が本質的に反革命的であることを示すために、彼の演説をハンガリー動乱の教会・帝国主義的影響の「証拠」として利用した。
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