教会の東西分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 20:53 UTC 版)
この項の主要参考文献:。 詳細は「東西教会の分裂」を参照 イスラム帝国は、西方にも影響を及ぼした。ウマイヤ朝カリフのもとに大征服戦争を進め、北アフリカを経てイベリア半島を占領し、ピレネー山脈を越えて西ヨーロッパに迫った。このとき、既にアリウス派からアタナシウス派へと改宗し、西ヨーロッパの覇権と中央集権化を進めていたフランク王国の宮宰カール・マルテルが、トゥール・ポワティエ間の戦いにおいてイスラム教徒軍を撃退した(732年)。 その結果、西欧キリスト教世界という地政学的・宗教的な共通認識が強化された。東ローマ帝国で皇位の簒奪があり、皇帝の血統による継承が途絶えたことを機に、ローマ教皇レオ3世は西暦800年のクリスマスに、カール・マルテルの孫のフランク王カール1世を「ローマ皇帝」として戴冠した。このことと、その後のオットー1世の戴冠による神聖ローマ帝国の成立により、ローマ教皇は、東ローマ帝国の行政上の代理人としての立場から解放され、聖俗が緊密な関係で統治を分かち合うという、西ヨーロッパ独特の政治宗教体制が出現した。 一方、東ローマ帝国では皇帝による聖俗両方の支配が完成し、教会は「キリストに忠実なる支配者」「神の代理人」として統治する皇帝の下で国家宗教として発展を続けたとされる事があるが、法律上では皇帝と総主教は並立して一致協力するものと規程されており(これを正教会ではビザンティン・ハーモニーと称する)、総主教が皇帝権力の側に逆に介入するケースもあった事に見られる通り、様相はそう単純ではない。皇帝と言えど教義を決定する事は出来ず、教義決定は公会議に全てが由来していた。但し、ドイツにおける名目上の存在に留まった神聖ローマ皇帝に比べて、実質的な権力を維持し続けた東ローマ帝国皇帝が相対的に大きな影響力を教会に対して発揮するケースが多かったのは事実である。 9世紀以降、キュリロス・メトディオス兄弟などによって東ヨーロッパのスラヴ人への布教が進められ、10世紀には皇帝ニケフォロス2世フォカスの後援でアトス山の修道院共同体が成立した。なおアトス山のヒランダリウ修道院は14世紀を中心としたセルビアの後援に多くを負っており、アトス山は東ローマ帝国にとどまらない東方の正教会世界全体の修道の聖地として成長を続けた。 古代からローマ司教は自らの権威をペトロとパウロに由来するものとして、全教会における首位性を主張していた(『クレメンスの書簡』など)が、ローマ帝国が東西に分裂することで帝国西方の中心地としてローマの地位も高まっていった。西方ではラテン教父と呼ばれる一群の神学者たちがあらわれ、ギリシア語で生み出された神学を継承し、ラテン語によって高度な神学を展開したが、一方で後代になるほどにギリシア語を解さない西方神学者も増えていった。 こうしてギリシア語を使う東方との相違は政治・宗教の両面で深まっていった。ローマ教皇の教皇首位権を巡る解釈にも、東西教会の見解の相違は増すばかりであった。 こうして互いに独自の発展を遂げたローマの聖座とコンスタンティノポリス総主教座は、フィリオクェ問題やフォティオス問題など何度かの対立を経て、決定的に対立することとなり、1054年にはローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教は互いを破門するに至った(大シスマ)。 この相互破門によって「聖なる一つの公の使徒の教会」はカトリック教会と正教会とに分裂することになったとされるが、これが本当に分裂を決定付けた事件であったかには疑問符も付く。第4回十字軍までは東西教会の分裂は確定してはいなかったというのが正教会側の解釈である。その後も西方では東方教会との再統合を求める声は根強く残り、公会議などで幾度か統合の道が模索されることになるが、第4回十字軍以降決定的に悪化した正教会側の反ローマカトリック感情により成功しなかった。 なお1054年の相互破門は、東方正教会とカトリック教会が1965年にその解除を宣言した。それにもかかわらず東西教会の合同が未だに成立していない事実は、東西両教会の分裂が1054年の事件だけで起きたものでは無い事を証明するものである。
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