キエフ大公位を巡る戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 07:51 UTC 版)
「スヴャトポルク1世」の記事における「キエフ大公位を巡る戦い」の解説
詳細は「ルーシ内戦 (1015年-1019年)」を参照 1015年、貢税(ダーニ)の支払を停止した息子ヤロスラフを懲罰するために遠征軍の準備をしていたウラジーミルが急死すると、キエフの人々の一部でウラジーミルが寵愛したボリスをキエフ大公に迎えようとする動きがあった。『原初年代記』によれば、このときキエフ大公の座を狙うスヴャトポルクはキエフ近郊の町ヴィシェゴロドの貴族らにボリスの殺害を指示したという。ペチェネグ人討伐のためウラジーミルから兵を与えられていたボリスは、配下の兵からの「スヴャトポルクを討つべきだ」という献言を退け、無抵抗のうちにリト川の付近で殺された。スヴャトポルクは続いて年端のいかぬ異母弟グレブにも暗殺者を送って殺害し、その遺体は暗殺者らによって「荒野の二本の丸太のあいだに投げ捨てられた」。 一方ヤロスラフは、ノヴゴロドでウラジーミル死去とボリスとグレブ殺害の報に触れた。ノヴゴロド市民とヴァリャーグ傭兵たちの支援を受けたヤロスラフは、1016年の晩秋、リューベチ近郊でドニエプル川を挟んでスヴャトポルクと3か月間ほど対峙し、湖が結氷してペチェネグからの援軍を得られなくなったスヴャトポルクを破った。『ノヴゴロド第一年代記』によると、スヴャトポルク軍にヤロスラフ側と内通する者がおり、この内通者の情報を得て夕方渡河したヤロスラフ軍が夜戦でスヴャトポルク軍を破ったという。敗れたスヴャトポルクはポーランドに落ち延び、義父ボレスワフ勇敢王を頼ったが、ボレスワフはこれをむしろキエフ・ルーシ侵攻の好機と捉えた。 1018年、スヴャトポルクはボレスワフ王率いるポーランド軍の助力を得てヴォルイニでヤロスラフを破り、ヤロスラフはノヴゴロドへ退散した。だが、この後キエフを支配したのはスヴャトポルクではなくボレスワフであった。ボレスワフは部下に「食糧を求めに私の従士団を(手分けして)町々に行かせよ」と命じ、ポーランド兵は「食を得るために」キエフに留まり続けた。ここに至ってスヴャトポルクはボレスワフ王と決別し、「町中にいるすべてリャヒ(ポーランド人)を殺せ」と人々にポーランド人の殺害を命じたため、ボレスワフは略奪品と共にポーランドに引き上げたが、その過程でチェルヴェンの諸都市を占領した。 ボレスワフが去った後スヴャトポルクは改めて公としてキエフを治めはじめたが、又もヤロスラフ軍の襲撃を受け、今度はペチェネグへと逃亡した。1019年、スヴャトポルクはペチェネグの大軍を引き連れヤロスラフ討伐を図り、キエフ南方のリト川付近で交戦した。夜明けと共に始まった戦いは「かつてルーシにはなかった」「血が谷間を流れる」(『原初年代記』)ほどの激しい戦闘となったが、夕方近くになるとヤロスラフ軍が勝利し、スヴャトポルクは敗走した。敗れたスヴャトポルクはリャヒ(ポーランド王国)とチェヒ(チェコ)の間の荒野へと落ち延び、『原初年代記』によれば「悪魔が彼を襲った」ため馬にも乗れないほど衰弱し、病に伏せてその生涯を終えた。
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