公国の成立
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中世にはケルト系小部族国家が群立し、やがてグウィネズ王国(英語版)(グウィネッズ)、ポーイス王国(英語版)(ポウィス)、デヒューバース王国(英語版)などの地方王権が形成された。ウェールズの民は外来者に対しては頑強な抵抗を示し、1066年にイングランドを征服したノルマン朝によるウェールズへの侵略・植民政策は、ウェールズ南東部を除いて恒久的な成功とはならなかった。13世紀にグウィネッズ王ルウェリン・アプ・グリフィズがウェールズのほとんどの領域を支配下に収め、1258年にウェールズ諸侯の第一人者を意味する「ウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)」の称号を名乗った。ここにウェールズ公国(Principality of Wales)が成立した。ただし、一時的な政治的統一にとどまり、イングランドのような恒常的な統一王権が確立されることはなかった。実態としては、リズラン法典に従うマナー家臣団による統治であり、オックスフォード条項以降のコモンロー支配によって、事実上、ウェールズはイングランド王家に追従した。
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公国の成立
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「シュレースヴィヒ公国」の記事における「公国の成立」の解説
デンマーク王国(エストリズセン朝)のクヌーズ4世(英語版)の弟、オーラフ1世(英語版)は、南ユトランド(シュレースヴィヒ)の伯爵(jarl af Sønderjylland)になった。オーラフ1世は兄の戦死を受けてデンマーク王(在位: 1086年 – 1095年)に即位した。オーラフ1世の弟であるニルス(英語版)王(在位: 1104年 – 1134年)は1115年、甥(エーリク1世の子)のクヌーズ・ラヴァー(英語版)を南ユトランドの伯爵に叙した。しかし「伯爵」の称号が使われた期間は短く、クヌーズはまもなく公爵を名乗るようになった。その後、クヌーズの子ヴァルデマー1世がデンマーク王位(在位: 1157年 - 1182年)に就いた。 1230年代、シュレースヴィヒ公国(南ユトランド)はヴァルデマー2世王(ヴァルデマー1世の子)の次男であるアーベルに、分領(アパナージュ)として与えられた。このアーベルはまもなく王位を兄から奪い取り、公国を息子に残した。1252年にアーベルが戦死した後、デンマーク王位はアーベルの弟の系統に移ったため、アーベルの子孫はデンマークの王位を窺い、デンマーク王とシュレースヴィヒ公は続く世紀のあいだ紛争状態にあった。 アーベルの妃はホルシュタイン伯の娘マティルデ(メヒティルト)であった。アーベルの系統は15世紀にかけて、シュレースヴィヒの南隣にあるドイツ人のホルシュタイン伯領(のちのホルシュタイン公国)と封土や婚姻によって結びつくようになった。ホルシュタインは神聖ローマ皇帝の封土であり、一方でシュレースヴィヒはデンマーク王の封土だった。この二国の異なる主従関係は、19世紀になって民族ロマン主義や国民国家の理念が人々の共感を得るようになると、ドイツとデンマークがこの地域をめぐって争うことになる主な原因となった。 シュレースヴィヒ公爵位は、14世紀にホルシュタイン=レンズブルク伯であったシャウエンブルク家に移り、1460年にはオルデンブルク家(オレンボー家)のクリスチャン1世(デンマーク王・ノルウェー王・スウェーデン王)の手に渡った。以後シュレースヴィヒ公爵位は、カルマル同盟によりデンマークとノルウェーの王(1523年にスウェーデンは離脱)を受け継ぐこととなったオルデンブルク家が有したが、デンマークは選挙王制の形式をとっていたため、世襲王制をとるノルウェー王としてシュレースヴィヒ公国を相続した。王が主君と封臣の二重の称号を持つことは奇妙なことであったが、王と王子が共同領主であったことからこの状態は生き残った。1544年、クリスチャン3世は、シュレースヴィヒとホルシュタインの両公国をオルデンブルク家とその分家であるゴットルプ家の共同統治とした(1580年までは、別の分家であるハダスレウ家も共同統治に当たっていたが断絶した)。以後、両家によるシュレースヴィヒ公国の共同統治は、1713年(ないし1720年)まで続いた。 宗教改革にともない、ラテン語で行われていた教会の礼拝のための言語は、「方言」すなわち住民の話す言語に置き換えられた。シュレースヴィヒの教区は分割され、ハダスレウに自治教区(大執事の管区)が設立された。西海岸にあったリーベ教区は、現代の国境線の北5kmにあった。シュレースヴィヒ教区では教会の礼拝と教育にドイツ語が用いられ、リーベ教区ではデンマーク語が用いられた。公国を分割する文化の境界線が引かれたわけであるが、これは現代の国境と近いところを走っている。 17世紀、デンマークとスウェーデンの間で展開された一連の戦争(デンマークが敗北した)は、この地域に経済的な荒廃をもたらした。しかし、貴族たちは新たな農業システムの導入によって復興にあたった。1600年から1800年にかけて、東部ドイツにおけるライ麦生産地帯と同様に、荘園経営が大きく成長した。荘園は封建小作農民が仕事を担う大規模所有であり、かれらは高品質の乳製品の生産に特化した。封建領主制は技術の近代化と結びつき、労役と賃労働の差異もあいまいであった。封建制度は1765年に王領で廃止されたのを皮切りとして貴族の荘園もこれに続き、18世紀後半には次第に廃止された。1805年にすべての農奴制は廃止され、土地制度改革によってかつての農民が自分の農場を所有するようになった。
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