オルデンブルク公国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 06:45 UTC 版)
「オルデンブルク (領邦)」の記事における「オルデンブルク公国の成立」の解説
オルテンブルク家の分枝であるホルシュタイン=ゴットルプ家は、1544年にデンマーク王クリスチャン3世が異母弟のアドルフを、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公(かつてのシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国の一部)としたことにはじまる。この系統からは、スウェーデン王家(ホルシュタイン=ゴットルプ王朝)が出たほか、リューベック司教侯家などの王侯が輩出した。第6代シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒはロシア皇女のアンナ・ペトロヴナと結婚、その子であるピョートル3世はロシア皇帝となった(以後のロマノフ朝をホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝とすることもある)。ピョートル3世の妃であったエカチェリーナ2世も母がリューベック司教侯家出身で、ホルシュタイン=ゴットルプ家の血を引いている。 1773年、デンマーク王クリスチャン7世は、ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子パーヴェル1世にオルデンブルク伯領を割譲した。デンマークとロシアは、シュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国を共有しており、オルデンブルク割譲はロシア側がシュレースヴィヒとホルシュタインに関する権利をデンマークに引き渡すことの代償であった。パーヴェルは、大伯父にあたるホルシュタイン=ゴットルプ家出身のリューベック司教侯フリードリヒ・アウグスト1世をオルデンブルク伯とした。1777年に陞爵が行われてオルデンブルク公国 (de:Herzogtum Oldenburg) となった。 フリードリヒ・アウグスト1世の子ヴィルヘルムは1785年にオルデンブルク公を継いだが、精神疾患のためすでに襲爵前に無能力が宣言されていた。このため従弟であるリューベック司教侯ペーター(のちペーター1世)が摂政としてオルデンブルク公国を動かしていた。1803年の帝国代表者会議主要決議により、オルデンブルク公国はオルデンブルク=ミュンスターラント (Oldenburg Münsterland) とリューベック司教領を併合した。
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