ホルシュタイン公国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 07:33 UTC 版)
「ホルシュタイン公国」の記事における「ホルシュタイン公国の成立」の解説
1459年、アドルフ8世は継嗣のないままに死去した。アドルフ8世の遺領のうち、シュレースヴィヒ公領はデンマーク王冠の属領であったため、宗主のデンマーク王クリスチャン1世(オルデンブルク家)に返還されたが、クリスチャン1世はアドルフ8世の甥(クリスチャン1世の母がアドルフ8世の姉)でもあったため、ホルシュタイン伯領をも自分の支配下に置こうとした。クリスチャン1世は、シュレースヴィヒとホルシュタインが同じ領主を持つ状態(人的同君連合)の継続を望む地元貴族たちの支持を受けており、1460年にはシュレースヴィヒ地方のリーベに地元貴族たちを招集して、自らがシュレースヴィヒ公とともにホルシュタイン伯位を継ぐことを宣言した(リーベ条約(Treaty of Ribe))。 ただし、アイダー川は依然としてデンマークとドイツの国境であり、ホルシュタイン伯領は神聖ローマ帝国内において、ザクセン系アスカーニエン家のザクセン=ラウエンブルク公国が宗主の地位を有する封土であった。1474年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、ホルシュタイン伯としてのクリスチャン1世に帝国直属身分(Imperial immediacy)を認め、爵位も公爵に上げられた。これにより、ホルシュタイン公国が成立した。 1490年、デンマーク王ハンスは弟のフレゼリク1世をシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国の共同統治者とした。この状態はフレゼリク1世が甥のクリスチャン2世を廃して自ら王位に就く1523年まで続いた。
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